この記事の目次
- 1ページ目
- 最初に仕えた上司は、後の袁術(えんじゅつ)トホホ武将、楊奉(ようほう)
- 李傕・郭汜が長安で内戦、徐晃、献帝を洛陽に移すように進言
- 今度は董承と韓暹が仲間割れ、徐晃は曹操を頼るように進言するが・・
- 徐晃、曹操に帰順する
- 2ページ目
- 官渡の前哨戦では、顔良(がんりょう)、文醜(ぶんしゅう)を破り袁紹の輸送隊を焼く
- 徐晃、潼関(どうかん)の戦いで陣地を構築し魏の勝利に貢献する
- 関羽、事件を切っ掛けに樊城、襄陽に進撃を開始
- 徐晃、優勢な関羽に挑み、これを撃破する
- 徐晃、孫子のお手本のような戦いで関羽を破り樊城の包囲を解く
- 3ページ目
- 曹操、魏のピンチを救った徐晃を褒めまくる
- 徐晃が凱旋すると曹操は自ら迎えに行く
- 沈着冷静、万事に控えめで少しも奢らなかった徐晃
- 三国志ライターkawausoの独り言
曹操、魏のピンチを救った徐晃を褒めまくる
この勝利を喜んだのは曹操でした、定軍山で夏候淵(かこうえん)を失い、漢中争奪戦では劉備に敗れた魏が久しぶりに何とか手にした大勝利であり、とても価値がある一勝だったからです。曹操は、手柄を立てた徐晃を褒めちぎりヨイショが止まりません。
「予は30年以上も兵を用いているが、これほどに長い距離を行軍して敵を破る将を他に知らない、ましてや樊城の状況は、燕が斉の即墨(そくぼく)、莒(きょ)を包囲した時よりも遥かに困難であった、将軍の功績は孫武(そんぶ)や司馬穰苴(しばじょうしょ)にも勝るであろう」
即墨と莒を包囲した燕の将は諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が尊敬した名将、楽毅(がくき)ですし孫武は孫子の編者、司馬穰苴は春秋時代の斉の名将軍でした、そのような伝説の名将より徐晃は偉大だと曹操はヨイショしたのです。
これは「労徐晃令」(徐晃をねぎらう令)という正式な布令によって魏の国内に出された文書です、曹操がいかに喜んだか分かりますね。
徐晃が凱旋すると曹操は自ら迎えに行く
徐晃が凱旋すると、曹操は摩陂(まは)という本陣から七里も離れた所まで出向いて徐晃が帰還するのを待っていたと言います、2・8キロです、相当待ちかねたのでしょう。
曹操は徐晃が帰還すると自ら酒を注いで勧めました、戦勝で無礼講になる曹操軍ですが、一番の功労者である徐晃の軍勢は一人も浮かれる事なく落ち着いて持ち場を守っていたと言われています。
もちろん徐晃も終始、控えめであり、少しも浮かれませんでした。それを見た曹操は、ますます感心して「徐晃には周亜夫の風があるのう」とまたヨイショしました。
※周亜夫(しゅうあふ)、前漢の文帝、景帝に仕えた人物、丞相、剛直で勇気がありよく諫言した。
沈着冷静、万事に控えめで少しも奢らなかった徐晃
徐晃は曹叡(そうえい)の時代まで生き、西暦227年に病死します。彼は万事に控えめで星の数程の手柄を立てましたがそれを誇らずいつも謙虚であり部下にも親身になって接したので絶大な人気がありました。
曹操という名君に出会えた事を生涯の幸運とし、自分の栄達など気にする様子もなく、いつまでも一兵卒のような気持ちで仕えたので徐晃を嫌う人は皆無だったようです。戦争においては情報を重視、常に最悪の事態を考えるという堅実な将軍であり、バクチを打たず無理をせず、勝機と見たら火のように攻めかかり多くの勝利を手にしました。
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三国志ライターkawausoの独り言
徐晃のような将軍は、情報を重視するので窮地にも陥らず、無理をしないので困難にも遭わないので、一見、危なくない場所ばかりで戦っている平凡な将軍に見えます。張遼のような800対、10万のような無茶な戦法は取らないので、イマイチ人気が出ないというような事にもなるのでしょう。
しかし、個人としては無敗の将軍で、もっとも安全パイな将軍ですから、kawausoが魏兵なら是非徐晃将軍に仕えたいです、間違っても張遼とかは嫌です。
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