この記事の目次
- 1ページ目
- 最初に仕えた上司は、後の袁術(えんじゅつ)トホホ武将、楊奉(ようほう)
- 李傕・郭汜が長安で内戦、徐晃、献帝を洛陽に移すように進言
- 今度は董承と韓暹が仲間割れ、徐晃は曹操を頼るように進言するが・・
- 徐晃、曹操に帰順する
- 2ページ目
- 官渡の前哨戦では、顔良(がんりょう)、文醜(ぶんしゅう)を破り袁紹の輸送隊を焼く
- 徐晃、潼関(どうかん)の戦いで陣地を構築し魏の勝利に貢献する
- 関羽、事件を切っ掛けに樊城、襄陽に進撃を開始
- 徐晃、優勢な関羽に挑み、これを撃破する
- 徐晃、孫子のお手本のような戦いで関羽を破り樊城の包囲を解く
- 3ページ目
- 曹操、魏のピンチを救った徐晃を褒めまくる
- 徐晃が凱旋すると曹操は自ら迎えに行く
- 沈着冷静、万事に控えめで少しも奢らなかった徐晃
- 三国志ライターkawausoの独り言
官渡の前哨戦では、顔良(がんりょう)、文醜(ぶんしゅう)を破り袁紹の輸送隊を焼く
徐晃は官渡の前哨戦である白馬・延津の戦いでは袁紹(えんしょう)自慢の二将軍、顔良と文醜の軍勢を蹴散らす功績を挙げ、さらに官渡の戦いでは大軍で兵糧の消費が激しい袁紹軍の輸送部隊を捕捉して襲いかかり、兵糧車数千台を焼き払いました。曹操は、徐晃のこの手柄を第一として、彼を都亭侯に封じました。
徐晃、潼関(どうかん)の戦いで陣地を構築し魏の勝利に貢献する
西暦211年、馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)が反乱を起すと曹操は討伐の為に親征します。しかし、曹操には黄河を渡り陣地を築けないのではないか?という懸念がありました。曹操は、黄河を北に渡り馬超と韓遂軍の背後に陣地を築こうと考えていましたが馬超には優れた騎兵があり渡河の最中に作業を妨害され軍を破られる恐れがあったのです。徐晃は、曹操に対して黄河を北に渡河して陣地を築く事を進言し朱霊(しゅれい)と共に4000騎を引きつれて蒲阪津(ほはんしん)を渡り陣地を築く準備を開始しました。
それを察知した馬超は梁興(りょこう)に5000騎を与えて妨害しますが徐晃はこれを破り、陣地を築く事に成功したのです。曹操は喜び勇んで、黄河を渡河しますが、そうはさせじと襲ってきた馬超の騎兵に打ち破られ、あわや討ち取られるという寸前まで行きます。
潼関の戦いは以後、曹操は俑道(ようどう)(周囲を土塁で固めた騎兵対策の道)を造りまくり、もぐらになって対抗しますが、賈詡(かく)の離間計で馬超と韓遂を仲違いさせる事に成功して勝利を治めています。
関羽、事件を切っ掛けに樊城、襄陽に進撃を開始
西暦218年、曹操が領有していた荊州南陽郡で事件が発生します。太守の東里袞(とうりこん)という男が曹操に褒められようと、民衆に重税を課して税金を大量に都に送り、民衆に激しく恨まれる事になっていたのです。東里袞の配下の侯音(こうおん)はこれに不満を持ち、関羽(かんう)と通じて反乱を画策、これは樊城の太守である曹仁(そうじん)により鎮圧されますが、これにより魏は激しく動揺します。折しも、曹操は漢中攻略戦で劉備に敗れ劉備は漢中王に登って関羽を前将軍に任命し荊州の軍権を委任しました。
名将である関羽は、いまこそ荊州を完全に飲みこむチャンスと見て息子、関平(かんぺい)や配下の趙累(ちょうるい)と共に樊城に向かって進撃を開始します。当時、樊城は曹仁、襄陽は呂常(りょじょう)が守っていました、曹操は于禁(うきん)と龐徳(ほうとく)を援軍として派遣しますが、ここで思わぬ事が発生します。
折からの長雨で漢水が氾濫し、于禁の七軍は水没、于禁は3万の兵と共に捕虜になり、龐徳は捕えられて斬首されます。関羽は幸運にも船を用意していたので、軍を水没させずに済んだのです。曹操の援軍を撃破した関羽は、余裕で樊城と襄陽を包囲して食糧を断ちました。
この敗戦は魏軍に衝撃を与えます、鄴の魏諷(ぎふう)は、この隙を突いて曹操に謀反を起そうとして計画がバレて捕えられ、曹操は関羽の進撃を恐れ、一時は本当に都を移そうと考える程であったと言われています。
徐晃、優勢な関羽に挑み、これを撃破する
曹操は、司馬懿(しばい)と蒋済(しょうさい)に説得されて遷都を思いとどまると、関羽と対立している呉の孫権(そんけん)に密書を送って背後から関羽を突くように持ち掛けます。孫権は、関羽を倒して荊州を奪い返すチャンスと見て、これを承認して呂蒙(りょもう)を送り込み、一方で曹操は、徐晃と趙儼(ちょうげん)を樊城に派遣して関羽と対決させようとします。
しかし、曹操が与えた軍勢は僅かでした、趙儼は、今は積極的に動かず、樊城の曹仁と連携を取りながら増援が来るのを待つように進言、単体で関羽と当たる不利を熟知している徐晃は、この意見を採用しました。
徐晃は地下道を通じて曹仁と連絡を取りながら、魏軍の状態を報告しつつ曹操の援軍が来るのを待ちます、徐商(じょしょう)と呂健(りょけん)が援軍を引きつれて合流すると徐晃は攻勢に転じ、塹壕を掘り、エン城を奪取すると見せかけると、大軍を恐れたエン城の守備軍は城を捨てて逃げ出します。
曹操はさらに5万の兵力を援軍として徐晃に送り、さらに合計12の屯営の兵力が送り込まれます。徐晃は、関羽との対決の準備は整ったとして、いよいよ樊城の包囲を解きに向かいます。
徐晃、孫子のお手本のような戦いで関羽を破り樊城の包囲を解く
その時、関羽は、囲頭(いとう)と四家(しか)に陣を築いていました、徐晃は囲頭を攻撃すると見せ掛け四家を攻撃します、これは孫子(そんし)の兵法の虚実偏にある「敵の守らない所を攻めよ」というお手本のような戦い方でした。虚を突かれた関羽は、5000騎を率いて徐晃に向かってきますが徐晃はこれを撃ち破り、火のように攻めて、攻めて攻めまくったので関羽は軍を立て直す余裕もなく樊城の包囲を解いて壊走せざるを得ませんでした。
関羽は、それでも襄陽の包囲は解きませんでしたが、呉軍に兵糧を奪われた事を知ると敗走、麦城に立て籠り、呂蒙の手で最後を迎える事になります。
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