曹仁(そうじん)は、曹操にとっては、一番古くからの部下です。この人も演義の影響で孔明(こうめい)にいいようにコテンパンにされていて、兵法書を勉強して再現した八門金鎖(はちもんきんさ)という陣形を簡単に破られたりしています。何となく、中途半端な脳筋のイメージが付きまとう曹仁は本当はどんな人だったのでしょうか?
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え?曹氏だけど、曹操とは血縁はない?
曹仁は字を子孝(しこう)といい西暦168年に豫(よ)州、沛(はい)国、譙(しょう)県に生まれました。夏侯惇のような夏侯氏ではない事から、曹操の血縁者のようなイメージですが、実際は曹操(そうそう)の養祖父である曹騰(そうとう)の兄の曹褒(そうほう)の孫にあたり直接の血縁はありません。
若い頃の曹仁は、「俺も昔は悪かった・・」を地で行く乱暴者でした。しかし、弓術、馬術、狩猟を好むなど、ただ馬鹿やっている人物ではなかったので次第に周囲の人望を集め、不良少年などを束ねる存在になります。
西暦190年、董卓討伐を叫んで若者数千名を集めて蜂起
西暦190年、22歳の曹仁は、密かに数千人の若者を集めて、反董卓の旗を掲げて蜂起、淮(わい)水と泗(し)水(徐州周辺)で大暴れをしています。やがて、曹操が旗揚げした軍に合流し、曹仁の長い曹操軍の武将としての人生がスタートします。別部司馬・行厲鋒校尉(ぎょうれいほうこうい)に任命された曹仁は西暦193年、袁術との戦いで多くの敵兵を討ち取ったり、捕虜にしたりと手柄を立てます。
ほどなく陶謙(とうけん)との戦いにおいては騎兵を率いて先鋒となり別軍を率いて陶謙の部将である呂由(りょゆう)を破り、彭城において本軍に合流しそこでも大いに功績を挙げました。そうです、肥満していてモサッとしたイメージの曹仁ですが、実は騎兵を扱いこなせるスマートな用兵が出来る稀有な人材なのです。
快進撃を続ける曹操が徐州の費(ひ)・華(か)・即墨(そくぼく)、開陽(かいよう)を攻撃すると、陶謙が援軍を派遣しますが、曹仁は再び騎兵を率いてこれを破ります。陶謙にも自慢の丹陽(たんよう)兵がいましたが、曹仁の騎兵には通用せず、ショックで引きこもりになった陶謙は、やがて病死してしまいます。
別府司馬(べっぷしば)とは、別動部隊の事
ちなみに別府司馬というのは、独自の部隊を率いている武将に与えられる役職で曹仁が単騎ではなく暴れ回った数千の軍勢と共に曹操に合流した事を意味しています。もちろん主従関係にはありますが、自分でまとめあげた部隊を持って動いているという点に、曹仁の非凡な統率力が見てとれます。
張繍(ちょうしゅう)との戦いでも手柄を立てる曹仁
西暦197年、曹操が降伏させた宛の張繍の兄の未亡人鄒氏(すうし)に夢中になって、張繍に背かれた時にも、曹仁は黙々と戦果を挙げ、低下した曹操軍の士気を奮い立たせて督戦しました。曹操は、張繍相手の戦いでは、敵の名軍師、賈詡(かく)の計略もあり、敗戦続きで余り良い事が無かったので、曹仁の働きには深く感謝したと言います。まさに戦闘職人、曹操がエロ事に興じていようが自身は成すべき事を為すという曹仁の真骨頂でした。
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