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桓騎(かんき)だけではない古今東西の残虐な戦術

2015年10月14日


 

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桓騎 キングダム

 

今、キングダムで最も熱い男は主人公、ではなく桓騎(かんき)であるという事に異論がある人はいないでしょう。基本は、正統派の少年漫画故に主人公にビッチな性質を付けられず、真面目、単純、熱血馬鹿というオーソドックスなキャラ設定の信に対してそんな縛りが関係ない桓騎はダークヒーローです。

 

その戦い方は残虐そのものであり、殺した敵の死体を凌辱する位は朝飯前、戦闘に関係ない村人まで皆殺しにしてしまうというビッチさで悪の華と化しています。しかし、歴史上には桓騎にも劣らない酷い戦術で敵の度肝を抜いたケースが、複数存在しています、それを見てみましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも桓騎(かんき)って誰の事?

三国志のモブ 反乱

 

桓騎とは、現在、週刊ヤングジャンプに連載中の歴史漫画キングダムに登場する戦国七雄の最強国、秦の武将の一人です。元々は山賊だった桓騎は、正攻法ではなく奇襲を得意としており、およそ、まともな武人なら汚いとして採用しない奇策を駆使して手柄を立てます。そればかりでなく、桓騎は敵をなぶり殺す事を趣味としている部分があり、略奪、強姦、殺人を自軍に許しています。

 

歴代皇帝の墓を暴こうとする韓遂の兵士

 

桓騎の部下の大半も山賊時代からの引き継ぎで、変な髪型に鼻輪そして言動もおかしい(でも一応千人将の)オギコ、同じく千人将の那貴(なき)、黒桜(こくおう)、雷土(らいど)、摩論(まろん)巨体で敵の串刺しが大好きな騎兵のゼノウ一家、そして凶暴さでは、ゼノウを上回る砂鬼一家等々、やばい連中でかためられています。そんな桓騎は現在、飛信隊を指揮下に加えて、黒羊丘(こくようきゅう)を奪取する為に、趙軍と戦闘中という所です、続きはキングダムで確認して下さい。

 

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桓騎の手本?鬼畜な戦い方で呉を破った越王、句践(こうせん)

越王句践

 

越王句践は、父の允常(いんじょう)の後を継いで紀元前496年に王になります。それを見た隣国の呉王の闔閭(こうりょ)は混乱に乗じて越に攻め込みます。両軍は、檇李(しゅんき)という土地で対峙しますが形勢不利の句践は、ここで鬼畜な戦法を採用します。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

句践は、前面に展開した呉軍の前に死刑囚を200名進軍させました。呉軍が何事かと見ていると、死刑囚達は、お互いに向かい合い、持っていた剣でお互いの首を刎ねはじめました。その壮絶かつ、不思議な光景を見て呉軍の士気は低下し、句践は、その隙を突いて越軍を突撃させて呉軍を撃破します。闔閭は、逃げ帰りますが、足に受けた矢傷が悪化して死にました。句践は事前に、死刑囚の家族の面倒を必ず見るという約束で、この計略を実行しましたが勝つためには平気で人の命を犠牲にするかなり鬼畜な戦術と言えます。

 

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ドラキュラのモデルになったヴラド3世の血も凍る戦術

 

東欧のルーマニアにも、血も凍るような鬼畜な戦術があります。15世紀の東欧、ワラキアの王だったヴラド3世がオスマントルコ相手に取った串刺し戦術がそうです。西暦1462年、オスマントルコ軍のスルタン(皇帝)メフメト2世が、ヴラドの領地があるワラキア方面へと進軍を開始します。その先発隊として、2万のオスマントルコ軍がヴラド領内に入りますが、兵力で劣るヴラドは、身分を偽り、オスマントルコ軍を歓迎する領民に化けてオスマントルコ兵に酒を飲ませて大いに酔わせました。そして、泥酔した頃を見計らって自軍を突撃させてオスマントルコ兵を破り生き残った兵士を捕虜にします。

 

捕虜になった兵を待っていた死よりも辛い刑罰の串刺し刑

 

ヴラドは、捕虜になったオスマントルコ兵に残虐な処刑を行います。それが串刺し刑でした。方法は、先端を丸く削った木の杭を肛門から少しずつ、差し込んでいき口から出すというおぞましい刑罰です。一見、即死しそうですが、杭の先が尖っていないのでなかなか死なず、何日間も死の苦痛と恐怖にさらされるというのが串刺し刑の残酷な所です。元々串刺し刑は、重罪を犯した農民に課せられた刑罰でしたが、ヴラド3世は、これを好んで使い、また反対派の貴族へも適応したのでツェペシュ(串刺し公)というあだ名をつけられていたのです。

 

こうして、串刺しになった1万人以上のトルコ兵は、ワラキアの首都であるトゥルゴヴィシュテ城の郊外に並べてさらされました。その後、メフメト2世の本隊はヴラド軍の攻撃を撃ち破り、トゥルゴヴィシュテ城に入城しますが、郊外の串刺しになった自軍の兵を見て戦意を喪失し引き上げたと言われています。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

桓騎といい、越王句践といい、ヴラド3世といい、こんな酷い戦術を考える所を見ると、残忍で酷薄な人物に思えますが実情は違います。このような残虐な戦術を取る第一の目的は敵の士気を挫いて、戦意を喪失させ、自軍の勝利を得る為であるからです。句践にしても、ヴラド3世にしても敵が圧倒的に優勢な状況を受けての戦いであり、他に選べる戦術がないという状態でした。ヴラドは国内に反対者も多いので敢えて残虐な処刑をして恐怖政治を敷き自分に反対する勢力を抑えたという事情もあり、ただの血に飢えた悪魔ドラキュラではなかったのです。また、桓騎の残虐な戦い方も、「敵が嫌がるからやっている」と桓騎が答えるシーンもあり、ただ趣味というばかりでは無さそうです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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