曹操(そうそう)と共に魏の草創期を支えた夏侯淵(かこうえん)の息子が夏侯覇(かこうは)です。子供がたくさんいた夏侯一族の中でも武勇に優れた勇将です。魏で起きた事件がきっかけで、蜀に亡命します。高齢になっても戦い続けた夏候覇(かこうは)を今回は紹介します。
この記事の目次
父夏侯淵の復讐を誓う
父・夏侯淵は定軍山の戦いで、劉備軍に討ち取られます。若かった夏侯覇は父を討った劉備軍に復讐を誓いました。その後、大将軍であった曹真が蜀討伐の軍勢を催す際、夏侯覇は先鋒として出陣します。しかし、夏侯覇は蜀軍の包囲を受けて、絶命のピンチに陥りますが、討ち取られる寸前で援軍に救出され一命をとりとめます。武勇に秀でた夏侯覇は後に右将軍に昇進します。
司馬懿のクーデターにより亡命
曹叡(そうえい)の死後、司馬懿(しばい)と曹爽(そうそう)が権力をめぐって争います。曹操に虎狼の相と称された司馬懿の謀略に、曹爽は破れ、処刑されます。曹爽に関係のあった一族郎党は殺され、従兄弟であった夏侯玄(かこうげん)も殺されてしまいます。夏侯玄は夏侯覇の従子(夏侯淵の甥)の続柄で、蜀軍と魏軍の国境司令官でした。夏侯玄の役職であった、蜀と魏の国境司令官は夏侯覇と仲が悪かった郭淮(かくわい)が継ぎます。蜀と魏の前線司令官に郭淮が任命された事と一族である夏侯玄が殺されたことで、夏侯覇は身の危険を感じ、父を殺した蜀に亡命します。
蜀で優遇された夏侯覇、その理由とは?
蜀に亡命した夏侯覇は、蜀で優遇されます。敵である夏侯覇はなぜ優遇されたのでしょうか。
それは蜀の二代目皇帝劉禅(りゅうぜん)の奥さんの母親が夏侯一族であったためです。夏侯覇は車騎将軍に任命され、魏にいた時よりも優遇されました。
姜維の片腕として北伐に参戦
車騎将軍に任命された、夏侯覇は姜維(きょうい)と共に王経軍を狄道で完膚なきまで叩きます。その後、狄道城を包囲します。しかし、狄道城を包囲していた蜀軍は、魏の名将陳泰(ちんたい)に敗北し、漢中に退却します。夏侯覇はその後、幾度となく姜維の北伐に参加します。そのたびに撃退され、思うような戦果を挙げることができませんでした。三国志演義によると、夏侯覇の最後は、八回目の北伐時だとされています。この北伐時に、空城の計に引っかかり、多数の伏兵の攻撃を受け、討ち死にしてしまいます。某ゲームは演義に基づいて構成されているので、夏侯覇の最後はこのような結末を迎えているのでしょう。
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