張嶷(ちょうぎょく)は越嶲周辺で反乱を起こしていた異民族を手なずける事に成功します。
孔明の跡を継いだ蒋琬(しょうえん)や費禕(ひい)らのミッションを着実にこなし、
蜀に靡(なび)いていない少数異民族らの討伐を開始していきます。
前回記事:張嶷(ちょうぎょく)とはどんな人?異民族討伐のプロフェッショナルだった蜀の将軍【前編】
この記事の目次
蒋琬ミッション01:蘇祁(そき)で反乱を起こした旄牛族を鎮圧せよ
張嶷は越嶲にいた異民族を手なずけると、孔明の跡を継いだ蒋琬からミッションが届きます。
ミッションの内容は「一度下った旄牛族が再び反乱を起こした。
すぐに反乱を鎮圧してくれ。」との内容でした。
張嶷はミッションを遂行するため、軍勢を引き連れて旄牛族の本拠
蘇祁(そき)へ向かいます。
蘇祁(そき)に到着するとすぐに城を包囲し、猛攻を開始。
旄牛族の軍勢をまとめていた頭目を捕縛し処断。
彼の妻をこの時捕えましたが、殺さず、捕虜にします。
反乱軍の残党は逃亡したり、張嶷に降伏したりします。
張嶷は逃亡した残党を追撃せず、蘇祁(そき)の治安や統治を安定させるため様々な
政策を行います。
こうして蒋琬からのミッションをクリアしますが、再びミッションが届きます。
蒋琬ミッションその2:旄牛族を手なずけろ
蒋琬からの次なるミッションは「旄牛族を手なずけろ」と書いておりました。
旄牛族はこの蘇祁(そき)以外の地域にも多数存在しております。
蒋琬は旄牛族を完全に手なずけたいと思い張嶷へ指令を出します。
張嶷はミッションを受け取ると、まず漢嘉(かんか)に居る旄牛族の頭目
狼路(ろうろ)には大量の酒と肉を送り、狼路の叔父には蘇祁でとらえた
頭目の妻を送ります。
この妻実は狼路の叔父の娘でした。
張嶷は蘇祁を攻める前に事前に旄牛族を調査。その結果、蘇祁で反乱を犯した
頭目の妻が狼路の叔父の娘だと分かり、殺さずに捕虜にしていたのです。
二人は張嶷の贈り物作戦にやられ、彼に帰順する事になりました。
こうして越嶲周辺に居た異民族は張嶷に心服し、反乱はなりを潜める事になりました。
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高い洞察力を持った異民族討伐のプロ
こうして異民族討伐のプロとして蜀の群臣達から認められた張嶷。
しかし彼は討伐以外にも優れた物を持った人物でした。
その優れている物は洞察力です。
孔明の跡を継いだ蒋琬が亡くなり、彼の跡を継いだのは費禕でした。
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費禕の悪い癖
彼の性格はざっくばらんで相手をすぐに信用してしまう所が悪い欠点でした。
そんな彼の元に魏の武将が降伏してきます。
費禕は魏の降将を素直に受け入れます。
たまたま成都に戻ってきていた張嶷は費禕に対して
「君の唯一の欠点はすぐに人を信用する所だ。魏の降将を信用すると大変な
事になるから気を付けた方がいい。」と忠告します。
張嶷は越嶲へ戻ると、成都から使者が来て
「費禕様が魏の降将に刺され、亡くなりました。」
と伝令がやってきます。
当たってほしくない予感が当たってしまいます。
また彼は諸葛格の死も予言しております。
諸葛恪(しょかつかく)は一度魏に大勝した事が原因で連年魏に攻め込んでいました。
張嶷は噂を聞き、すぐに孔明の息子である諸葛瞻(しょかつせん)に「諸葛格が
幼帝の側を離れて敵地に遠征を繰り返せば、
呉の内部に居る敵に殺されてしまうだろう。」
と手紙を送ります。
諸葛瞻は張嶷の手紙を諸葛格に送りますが、届いた頃には亡くなっておりました。
こうして洞察力に優れ、物事を予見する能力を持った人物でした。
越嶲を統治する事15年ついに成都に帰る
洞察力に優れた張嶷は、異民族討伐を完了し、彼が統治する地域では反乱がぴたり
と止み、住民らは平和に暮らしておりました。
そんなある日張嶷は成都に帰る事が決まります。
彼は以前から風土病にかかり、足はマヒしており、杖が無くては歩けない程
深刻な状態になっておりました。
そのため蜀の皇帝である劉禅に願い出て成都へ戻してもらえるように打診しておりました。
その打診の成果がこうして実り、ついに成都に帰る事になります。
成都に帰る当日。
張嶷を見送りに多数の異民族の頭目や住民たちが並んで別れを惜しんでおりました。
多数の人々に見送られ、張嶷は異民族討伐のプロとしての責務を果たすのでした。
魏軍との壮絶な戦い
張嶷は成都へ戻ると、狄道の県長が蜀に降伏したとの情報が入ってきます。
姜維(きょうい)はこの情報を信じ出陣します。
張嶷は病が完治していない状態でありながら出陣。
彼は出発する前に劉禅に書状をしたためています。
彼は劉禅(りゅうぜん)に「私の病はもう治らないでしょう。ですから今回出陣に際して、
身命を国に捧げる覚悟で戦ってきます。」と壮絶な覚悟を記した書状を送ります。
その後姜維と共に出陣した張嶷は、魏の徐質の軍勢に猛攻を仕掛けられます。
張嶷は姜維を逃し、奮戦しますが、足が不自由であった事が原因で討ち取られてしまいます。
しかし張嶷軍が受けた損害の倍の数を徐質の軍を与える大奮戦を行ったのです。
張嶷の戦死を知った越嶲郡の人々は大いに悲しみ、彼の墓を建てて供養したそうです。
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三国志ライター黒田廉の独り言
三国志を書いた陳寿は張嶷をこのように褒めております。
「私は張嶷の言葉使いやその態度を見たことあるが、人を驚かせるべきものは
何も持っていなかった。しかしあの人が持っていた策には目を見張るものがあった。
また臣下として忠節の節義を保ち、異民族に対しては心優しく接していた。
古の英雄と比較しても彼はなんの遜色もない。」と大いに張嶷を褒めています。
蜀の名将と言えば関羽や趙雲らに隠れてしまって彼の名前は出てきませんが、
陳寿も褒め称える隠れた名将である事は間違えありません。
今回のお話はここでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~
次回記事:張嶷(ちょうぎょく)とはどんな人?異民族討伐のプロであり陳寿も認めた忠義と信義【後編】