古来から中国の文化は関東と関西に分かれます。
関西は将を出だし、関東は相を出だすと云われている通り、軍事面で圧倒的に優れていたのは関西でした。
文武両道という言葉がありますが、中国は武より文を重んじる国です。
よって政治を関東が引っ張り、関西がそれに同調するというのが一般的な流れになります。
いろいろな側面がありますが、董卓とこの関東諸連合の戦いは、実は関西VS関東の戦いです。
三国志演義の虚構
三国志演義ではこの反董卓連合を「十八路諸侯」と呼んでいます。
しかし実際には連合に参加していない人物の名前も見られます。
馬超(ばちょう)や陶謙(とうけん)、孔融(こうゆう)、公孫瓚(こうそんさん)などがそれにあげられます。
特に馬超は関西の人間です。関東に与するわけがありません。
この時代に名を馳せた有名な将軍に皇甫嵩(こうほすう)という人物がいましたが、
関西の出身で、董卓側についています。
また、三国志演義ではこの十八路諸侯が陳留に集結したとしていますが、
実際はかなりばらけて陣を敷いています。
陳留の酸棗(さんそう)に駐在していたのはリーダー格の張邈、
袁紹(えんしょう)は黄河の北にいましたし、袁術(えんじゅつ)と孫堅(そんけん)は南にいました。
清流派の集団
関東の反董卓連合の正体は、董卓によって用いられるようになった清流派知識人の集団です。
その筆頭が八厨に数えられた張邈でしょう。
関東軍は理想や志こそ高くても、軍事面において関西軍より未熟であり、
また、まとまりを欠いていました。
実際に戦闘したのは曹操、袁術、孫堅、王匡だけであると云われています。
他は連日宴会を開き、日和見状態だったそうです。
特に袁術配下の孫堅の強さは抜き出ており、
董卓の勇将・華雄(かゆう)を討ち取ったことで有名です。
董卓もこことだけは和睦を結びたがっていたようです。
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兵糧切れ
袁術が孫堅の活躍に嫉妬し、前線に兵糧を輸送しなかったことで孫堅が敗れたことになっています。
また兵糧を巡る争いでは、劉岱が橋瑁を討っています。完全な内部分裂です。
このように関東軍は絶えず兵糧の問題に悩まされていました。
やがて兵糧が尽きて一年ほどで連合軍は自然消滅してしまいます。
持久戦をすれば董卓が折れると予想していたのでしょうが、
退却しなければならなくなったのは関東連合軍の方でした。
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長安への遷都
関東連合軍の敗北を決定づけたのは、董卓が洛陽から都を西の長安に移したことです。
このことで献帝は完全に関西の領土に連れて行かれることになります。
兵糧の問題を抱えており、兵站を延ばすことのできない関東連合軍は動きが取れなくなります。
危機を感じた曹操は必死にこれを追撃しますが寡兵のために敗れます。
袁紹は献帝の救出を諦めて、幽州の劉虞を新帝に立てると云い出す始末です。
この状況では誰も長安までの長距離の進軍はできなかったのではないでしょうか。
董卓の見事な作戦勝ちです。
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結論
このように考えていくと、反董卓連合に勝ち目があったとは到底思えません。
仮に曹操がリーダーとなり、全軍が一丸となれていれば話は違ったかもしれませんが、
このときの曹操は兵を他人から借りるほど小さな勢力でした。
諸侯を率いることなど夢物語です。
董卓は関東諸侯の思惑がちぐはぐであることを見抜いていたでしょうし、
主力である袁紹と袁術の仲が悪いことも把握していたことでしょう。
戦わずしても勝てるとまで踏んでいたに違いありません。
反董卓連合は負けるべくして負けたと云えます。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
この戦いの一番の見せ場は、董卓側の華雄軍VS袁術側の孫堅軍の戦いでしょう。
「陽人の戦い」と呼ばれている激戦です。
ここでの敗北だけは董卓も予想外だったに違いありません。
袁術軍だけは関東軍のなかでは特異だったのかもしれません。
軍事面で関西に対抗できる唯一の勢力だったのではないでしょうか。