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孫呉討伐の軍勢を率いて進軍するも…
曹丕(そうひ)は孫権を討伐するため、進軍を開始します。彼は3つの経路に分けて進軍させ、洞口(とうこう)と呼ばれる地点へは、合肥(がっぴ)の英雄である張遼(ちょうりょう)や曹休(そうきゅう)らを派遣します。
濡須江(じゅしゅこう)へは樊城攻防戦で活躍し、曹操軍では1番の実力を持った曹仁(そうじん)・曹泰(そうたい)らを出陣させます。そして荊州方面へは歴戦の将軍である張郃(ちょうこう)や負け知らずの徐晃(じょこう)らを派遣し、曹魏のオールスターと言える将軍達を出陣させます。しかしこの戦いは洞口と濡須江方面に出陣させた魏軍は、暴風雨が発生した事が原因で、呉へ攻撃を行う事ができませんでした。
荊州方面の魏軍も撤退する
荊州方面に侵攻した魏軍も江陵城に籠った呉軍の粘り強い防戦で、陥落させることができませんでした。またこの江陵攻防戦の途中で、魏軍に疫病が発生。また長江が暴風雨によって増水した事も原因で、曹丕は荊州方面の魏軍にも撤退を命じます。
この時呉軍は撤退する魏軍へ猛攻をかけ、魏軍の将軍である曹泰などが討ち死にしてしまいます。荊州方面侵攻軍の司令官であった曹仁は、この敗戦で大きなショックを受けて自殺。結局この戦いでは大きな戦果を挙げる事ができずに失敗に終わってしまいます。
再度呉討伐へ出陣
曹丕は孫権討伐に失敗すると大いに悔しがり、再び出陣することを決意します。彼はすぐに出陣することはせずに、まず自分が乗る大型の船を建造することにします。この船は舳先に龍の彫り物を飾った龍船(りゅうせん)と言われる、かっこいい船を建造した後、自ら軍勢を率いて出陣しますが、しかしこの出陣も失敗に終わってしまいます。
今回の戦の原因は呉の将軍である徐盛(じょせい)が意外な作戦に出たことが原因です。徐盛は曹丕が出陣した事を知ると、石頭城(せきとうじょう)と呼ばれる地に、大きくて広い偽城を作ります。この偽城を見た曹丕は大いにビビッて、軍を呉へ侵攻することにためらいを覚えます。曹丕が石頭城に攻撃を仕掛けるか迷っている間に、再び長江の水かさが増してきたため彼は再び退却することになります。
3度目の正直
曹丕は2度孫権討伐に失敗するも、次こそは必ず討伐してやると意気込んで、再び呉へ出陣します。過去2回の経験から夏場に出陣すると、長江の水が増してきて大変な事になると感じ、3回目の孫権討伐は冬場に出陣します。しかし冬場に出陣し波は荒れませんでしたが、長江へ至る河がカッチカチに凍ってしまい、船が長江へ向かう事が出来なくなってしまいます。
この状況を見た曹丕は大きなため息をついて「はぁ。呉を討伐するなと天が俺に命じているのか」とこぼして撤退していきます。都合3回にわたって呉討伐の軍勢を催すも一度も戦果を挙げる事ができずに、引き返してしまった曹丕でした。
曹丕死す
曹丕はこうして何事も得ないまま、都に帰ってくると突然病に襲われてしまいます。そして彼の病は治る事が無く突然亡くなってしまいます。まだ40歳という若さでの突然の死でした。彼は亡くなる前に自分の後継者を曹叡(そうえい)に決め、司馬懿(しばい)・陳羣・曹真(そうしん)・曹休らを枕元に呼んで、曹叡の事を託します。
また曹丕は遺言を残しており父曹操と同じく「墓には金銀財宝や墓に装飾品などつける必要はない。その理由は古今東西、皇帝や王の墓が荒らされないことなどないためである。」と明快な理由をつけており、父曹操に似て非常に合理主義的な面があった証左であったと思います。こうして魏は初代皇帝が亡くなった事で、次世代に移る事になります。
三国志ライター黒田廉の独り言
魏の初代皇帝曹丕をご紹介しました。彼が皇帝にいた時間はたったの7年と非常に短い時間であったため彼が行った政策はじっくりと成果を出すことができませんでした。もし彼が長生きをして、魏の基盤をしっかりと整える事が出来れば、蜀も北伐に赴くことができず、呉も魏へ攻撃することはできなかったでしょう。
そして司馬家の王朝である晋王朝は生まれずに終わったかもしれません。この曹丕が早く亡くなった事が、魏の王朝にとって滅びへの一歩となってしまいます。「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~」
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