意外!龐統は不細工では無かった?蜀志龐統伝には明かされていない龐統の容貌

2016年12月10日


 

孔明 龐統 軍師

 

三国志演義では、荊州の人物鑑定家の司馬徽(しばき)により、

天下の軍師、臥龍(ふくりゅう)と鳳雛(ほうすう)の一人として、

孔明と並ぶ軍師として劉備の配下になる、龐統士元(ほうとう・しげん)

しかし、長身で色白の美形として描かれる諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)

比較して、龐統は太った不細工な人間に描かれています。

では、実際の龐統は、不細工だったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志、蜀志龐統伝には、容姿に関する記述は一つもない

龐統

 

太っていて酒飲みで不細工、動作の鈍い男というのが龐統のイメージですが、

実際に蜀志、龐統伝を調べると龐統の容姿に言及した部分は、

一つもありません。

つまり、龐統が不細工というのは演義のキャラクターづけであり、

細身の孔明と肥満した龐統という並びが対比としては、

最適であったという事なのでしょう。

 

ですが、龐統を不細工に描くヒントになったであろう記述は、

龐統伝から見出す事が出来ます。

 



若い頃はぼんやりして地味な性格と見られていた龐統

龐統 ゆるキャラ 三国志

 

龐統伝には、以下のような記述があります。

 

統字士元、襄陽人也 少時樸鈍、未有識者

 

この意味は、龐統は襄陽の出身だが、少年時代は、

鈍くて地味な性格で、故に誰も知る人がいなかったです。

 

つまり、若い頃の龐統は、ぼーっとした性格であるばかりか、

自分をPRする事もないので、名士の家系でありながら、

誰も知らなかったと書かれているのです。

 

それくらいなら、そういう地味な性格の人もいたんじゃないか?

と思うかも知れませんが、この時代は人を推挙する

人物鑑定人、今で言えばインフルエンサーが各地にいて、

当時の士大夫階級は、彼等と交流を求め、媚びを売り、

名を覚えてもらうのに躍起になっていました。

 

そうしないと役人として推挙されず、しかるべきポストにも就けず、

無職のまま人生を終わる可能性があったからです。

 

孔明

 

隆中のド田舎で隠者を気取る若き孔明だって、

襄陽の名士、黄承彦(こうしょうげん)の娘を娶り、

同郷人に羨望とやっかみ半分で、囃されているのです。

 

つまり、せっせと顔を売り人脈を造るのが当たり前の世界で

何もしない龐統は極めて異質でした。

 

この樸鈍という、少年時代の龐統の性質はどこか抜けた印象を生み、

自身を着飾らない態度は、ボロボロの着物を着たイメージを生み

演義に登場する、頭脳明晰だが、不細工で薄汚れた軍師龐統の姿に

発展していったのだと考えられます。

 

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実は孔明以上に名士だった龐統

龐統と的盧

 

三国志演義では、ずば抜けた知略を持ちながら、途中で死んだ事もあり

地味な役回りの龐統ですが、家柄では、孔明を上回っていました。

 

当時、荊州北部で随一の知名度を持っていた名士は、龐徳公(ほうとくこう)

という人物です。

この龐徳公から見て、龐統は甥であり、最初に龐統が世に出る機会を得た、

司馬徽(しばき)との会見も、18歳になっても何のPRもしない龐統に、

「このままではいかん、人物鑑定家の司馬徽に会って知遇を得よ」という

龐徳公の指示があったという事が襄陽記には出ています。

 

そもそも、人物鑑定家の司馬徽自身が、龐徳公の十歳下で、

彼を龐公と呼んで兄として敬っているのです。

 

龐統は、司馬徽に会っても、樹上で桑の葉を取る龐徳公に、

樹の下から話しかけて、夜に及んだというので、まあ、不躾な態度です。

しかし、兄弟子の龐徳公の甥である以上、どんなに不躾でも、

司馬徽が龐統を低く評価する事は無かったに違いありません。

 

実際、「龐統は荊州名士のトップたらん逸材」と褒めあげていますし・・

 

因みに孔明の姉(或いは妹)は、龐徳民の息子の龐山民(ほうさんみん)に嫁いでいます。

こうして見ても、名士ぶりでは龐統が孔明を凌駕しているのです。

 

裴松之(はいしょうし)の注釈によると、龐統を鳳雛、孔明を臥龍、

司馬徽を水鏡(すいきょう)とあだ名したのは、皆、龐徳公だそうです。

 

或る意味、全員、てめーの身内じゃねーか!

ひでーエコヒイキだなおい!

 

と突っ込むのは、野暮でしょうが、彼等の荊州での重んじられ方を見ると、

龐徳公の陰然たる影響力が分りますね。

 

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もし、龐統が長生きしていたら、孔明の丞相就任も危なかった?

龐統

 

このような龐統ですから、もし、落鳳坡(らくほうは)で死なずに生き残り、

そのまま劉備政権に残ったら、荊州閥の代表は龐統という事になり

馬良(ばりょう)や馬謖(ばしょく)も龐統側に立って、

劉備の死後の孔明の宰相就任は、かなり難しくなったかも知れません。

 

法正

 

そうでなくても、益州攻略の手柄が龐統にはあり、もちろん、

途中で戦死しなければ、孔明が荊州から呼ばれる事もなく、

腹黒さでシンパシーがある、法正(ほうせい)&龐統のタッグが成立し、

孔明は、益州に居場所がないという事態になった恐れもあります。

 

だとすると、あの場で龐統が死ぬのは、実は孔明にとって、

ライバルが消えたという事で、マイナスばかりでも無かった・・

真っ黒孔明の立場ではそういう事になりますね。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

三国志演義の龐統ブサイク演出は、実は変なねじれを起こしています。

人間を見た目ではなく、内面で判断する筈の劉備が、龐統の醜さに、

判断を誤り、小さな県に左遷するのに対し、悪役の曹操(そうそう)は、

赤壁で龐統を丁重に迎え入れ連環の計を喜んで受け入れているのです。

 

これでは、劉備は曹操よりも人の内面を見抜く力がない

という事になってしまい、演義の設定が矛盾してしまいますよね。

 

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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