呉には知将や猛将など多くの人材を抱えておりました。
孫権の時代には多くの人材が彼の元に集まってくることになります。
知将と言われる人材には周瑜(しゅうゆ)や呂蒙(りょもう)、魯粛(ろしゅく)、陸遜(りくそん)や
張昭(ちょうしょう)、諸葛瑾(しょかつきん)など知将、文官がいっぱいおりました。
また武将では甘寧(かんねい)、凌統(りょうとう)などの猛将や程普(ていふ)、韓当(かんとう)など
孫権の父である孫堅の時代から付き従って孫家を支えていた人物もおりました。
今回は孫権のお兄ちゃんである孫策と敵対していた人物ですが、
後に孫策に降伏して孫呉の武将となって活躍した人物・太史慈(たいしじ)の知略エピソードを
ご紹介したいと思います。
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出身地から逃亡することになった若かりし頃の太史慈
太史慈は東莱(とうらい)という所の出身で、若い頃はこの地の役人をしておりました。
しかし事件に巻き込まれて東莱にいることができなくなってしまい、
公孫氏(こうそんし)が領有している遼東半島へ逃亡します。
彼はこの時、老いた母を出身地に残してしまうのですがこの母の面倒を見てくれていたのが、
後に曹操の配下となるも曹操の批判ばかりしていたせいで、殺害されてしまう孔子の子孫である
孔融(こうゆう)でした。
恩人の危険を知る
太史慈は遼東半島に逃亡しますが、数年後生まれ故郷である東莱へ帰ってくることになります。
太史慈が東莱へ帰ってきたとき中華で勃発した農民反乱である黄巾の乱は、
あらかた鎮圧されておりましたが、鎮圧されていない反乱軍も多数おり、
青州(せいしゅう)には黄巾の乱の最大の残党と言われる青州黄巾軍駐屯しておりました。
太史慈の生まれ故郷である東莱には、
幸い黄巾軍の残党が襲いかかってくることはありませんでしたが、
北海(ほっかい)の相となっていた孔融の元に大軍の黄巾軍が押し寄せておりました。
以前太史慈が遼東へ行っている間に孔融が老母の面倒を見てくれた恩を返すために、
彼は黄巾の大軍に囲まれている北海へ向かうことにします。
秘策を用いて孔融を助ける
太史慈は北海へ到着すると孔融と会見します。
孔融はこの状態を切り抜けるには近くの平原から救援を仰ぐしかないと考えておりした。
彼の考えを聞いた太史慈は「分かりました。
私がなんとかこの包囲網を突破して平原へ行って救援軍を呼んでまいりましょう。」と述べます。
しかし北海の城は黄巾軍に包囲されているので、包囲網を突破して平原へたどり着くのは
至難の業でした。
そこで太史慈はある秘策を用いることにします。
太史慈の秘策:城外で毎日弓矢を射る
太史慈は城門を開いて城外へ出ると城の空堀へ向かいます。
そしてこの空堀の中で彼は弓の練習を行って城外へ帰っていきます。
次の日も彼は再び城外へ姿を現すと弓を射る練習を行います。
こうして幾日か弓の練習を城外で行うと黄巾軍は次第に彼に警戒心を抱かなくなってきます。
太史慈は黄巾軍が自分に警戒心を抱かなくなってきた隙をついて、
包囲陣へ向かって馬を走らせて突破していきます。
そのまま太史慈は平原の相をしていた劉備に救援を頼み、
大軍を率いた劉備と共に太史慈は孔融を救うことに成功します。
三国志ライター黒田レンの独り言
三国志の呉の猛将である太史慈の知略エピソードを今回はご紹介しました。
蜀の五虎将軍である張飛も蜀に進行してきた魏軍の大将・張郃(ちょうこう)に対して、
知略を用いて戦っております。
意外と猛将と言われている人達もいくつもの戦場を体験していることから、
戦場における知識を駆使した知略を持っているのではないかと思いますが、
皆様はどのように思いますか。
参考文献 三国志 勝つ条件 敗れる理由 加来耕三著など
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