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ライバルへの最期の言葉、劉備と曹操のイイ話

2017年3月30日


 

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西暦200年、後漢の車騎将軍、董承(とうしょう)による曹操(そうそう)

暗殺計画に加担してより不倶戴天(ふぐたいてん)の敵になった

曹操と劉備(りゅうび)曹操からすれば、呂布(りょふ)に追われた所を助けてやったのに!ですし、

 

 

劉備からすれば、漢王朝を私物化する奸賊が何を言うか!という事になります。

以来、殺るか殺られるかの戦いを続けた2人ですが、その対決の最期には、

一つの感動のドラマがありました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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愛憎が渦巻く二人のドラマ

 

人材コレクターの曹操は、優秀な人物とみれば敵も身分も問わず厚遇していますが、

その中でも劉備に対する入れ込み方は尋常なものではありませんでした。

献帝(けんてい)を迎え入れて、大物ぶりたかった曹操は劉備を自分と同じ馬車に載せ、

左将軍の官位を与え、内密の話も二人で酒を煮ながら交わすような蜜月ぶり、、

関羽(かんう)に対する厚遇は、基本贈物攻撃でしたが劉備にはスキンシップです。

 

 

はっきり言って曹操は、一時期は関羽以上に劉備が欲しかったのではないか?

そう考えてしまう程のゾッコンでした。

 

しかし、劉備は、そんな曹操が献帝を蔑ろにするのを苦々しい思いで見ており、

董承の暗殺計画にも参加するような状態でした。

後に計画が露見した時に、参加者に劉備の名前があるのを知った曹操は激怒しますが

その頃には劉備は袁術(えんじゅつ)討伐の為に許を離れていたのです。

 

袁紹に曹操が叛こうとしているとバラすわ、後方撹乱するわ恩知らずな劉備

 

徐州に立て籠って曹操に反逆した劉備ですが、すぐに曹操に撃破されます。

ここで関羽が捕らわれるのは有名な話ですが、劉備は必殺妻子置き去りで逃亡し、

袁紹(えんしょう)の所でわらじを脱ぐと、袁紹に対して曹操が叛こうとしていますと

極秘情報を公開します。

 

袁紹「マジか?道理で最近、あいつ俺の言う事を聞かないと思えば、許せん!」

 

かくして、袁紹は曹操が強大化する前に討伐しようと決意します。

曹操、後悔しても仕切れません。

(玄徳のボケカスめ、、信用してわしの内心を話したら、袁紹にチクりおった)

 

アチコチに敵を抱えつつ、袁紹と戦う羽目になる曹操ですが、官渡決戦では、

劉備は二度に渡り、兗州の下の豫州に入って陽動作戦を展開しています。

これはしつこい・・袁紹の義理を立てるなら一回でいいはずなのに二回です。

劉備は曹操を滅ぼしたくてたまらなかった模様です。

 

 

官渡では、袁紹軍に包囲され、背後では劉備が暗躍、、

これは曹操の精神を苛み、一度、官渡から撤退したいという弱気な手紙を

荀彧(じゅんいく)に書き送るという所まで曹操を追いこみました。

 

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殺す!絶対殺す!劉備を追いまわす曹操

 

曹操の長年の恨みは、西暦208年、荊州を陥落させた後に爆発します。

劉備を逃がすなとばかりに、足の速い騎兵を急行させて入りそうな拠点を封じます。

相当に追いつめられる劉備ですが、殿軍の張飛(ちょうひ)の活躍や得意の、

妻子置き去りアタックで、孔明(こうめい)や関羽のような僅かな共だけで

劉琦(りゅうき)が守っている江夏城まで逃げています。

 

この執拗な追い回し方は、曹操が劉備を恐れていた事もありますが、

それ以上に、自分を裏切り、苦しめた劉備に対する復讐の念でしょう。

 

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曹操の死後、劉備が取った行動とは・・

 

劉備と曹操の最期の対決は、西暦219年の漢中攻略戦ですが、先に漢中を領有した

劉備は、ここを堅く守り曹操の挑発にも応じず、とうとう曹操は引き上げます。

翌年3月、曹操は病を得て、66年の生涯を閉じますが、劉備は曹操が薨じたと聞き、

軍謀掾(ぐんぼうえん)の韓冉(かんぜん)を派遣し書簡にて弔意を奉じ、

併せて賻贈の礼を致したと魏書に記録されているのです。

 

つまり、死を悼む弔文を送ったのですが、その書簡の内容は残念ながら、

現在まで伝わっていません、どんな事が書いてあったのか興味がありますが残念です。

劉備の人生は、曹操との戦い無しに(基本劉備が悪いが・・)語れませんから、

ライバルが死んだという時に、劉備の胸にも何か去来するものがあったのでは

ないかと考えてしまいます。

憎しみ合ったライバルでも死んだ時には、お別れの一文を送るとは、

殺伐とした三国志の中では良い話に入るのではないでしょうか?

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

もちろん、劉備がセンチメンタルだけで、曹操の死を悼む使者を出すわけありません。

形式上は、後漢の臣だった曹操に、敢えて弔意を示す事で自分の度量をPRする。

または、曹操亡き後の魏が混乱しているか否かを弔問にかこつけて確認させる。

 

或いは、曹丕(そうひ)の度量を見て今後の戦略に役立てる等の理由があったでしょう。

実際に魏書では、曹丕は劉備の行為を弔問に見せ掛けてスパイ活動をするとは、

あざといと断じて韓冉を斬ったとも記されています。

 

ですが、その中には、かつてのライバルを悼む気持ちが少しはあると思います。

そうでなければ、劉備は、曹操の世話になり裏切り、秘密をバラし袁紹の手下として

後方撹乱に勤しんで曹操を苛んで仕舞いには、曹操が死んでも何とも思わない

鬼畜な人になってしまうじゃあないですか?

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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