【魯粛・朱桓・周魴の息子達】三国志後半を彩った呉の二代目武将はかなりの名将ぞろいだったことが発覚!!

2017年10月3日


 

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・蜀の二代目武将達は優秀な武将も多いですが、

大体がボンクラのような武将ばかりでした。

その原因としては国家創業期に生まれずに国家が安定していた時期に生まれていたため、

能力を活躍させる場が少ないからだと思われます。

 

 

しかし孫呉の二代目大都督・魯粛(ろしゅく)

曹魏の名将・曹仁(そうじん)を打ち破った朱桓(しゅかん)

石亭の戦いで魏軍を誘い込むことに成功し、

孫呉の大勝利のきっかけを作った周魴(しゅうほう)。

彼ら三人の息子達はかなり優秀な武将達でしたのをご存知でしたか。

今回は魯粛朱桓・周魴の三人の息子達をピックアップしてご紹介しましょう。

 

関連記事:【新事実】天下三分の計を実現させた立役者は魯粛であった

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魯粛に似て政治手腕を発揮した魯粛の息子・魯淑

 

日本に三国志ブームの火付け役として活躍した横山光輝(よこやまみつてる)。

三国志が好きな方なら一度は、

横山光輝が書いた漫画・三国志を読んだことがあるのではないのでしょうか。

横山光輝が書いた三国志は三国志演義をベースにしているため、

蜀を建国した劉備が主人公として描かれています。

そのため魯粛(ろしゅく)は、

劉備と劉備の軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)の引き立て役として描かれていますが、

正史三国志では横山三国志のような引き立て役ではなく、

優秀な人物として描かれております。

諸葛孔明は劉備が今後目指すべき目標として掲げた天下三分の計

だが魯粛は孫呉の今後の目的として天下三分の計を孫権へ提案しております。

また魯粛は外交官としても優れております。

その一例として孫呉は赤壁の戦いで勝利を収めると劉備に荊州(けいしゅう)を貸しますが、

劉備は荊州を足がかりにして益州をとったにも関わらず荊州を返還しませんでした。

そのため劉備と孫権の同盟関係は悪化し一触即発の危機を孕んでしまいます。

しかし魯粛は劉備や荊州を劉備の代わりに統治していた関羽と粘り強く交渉を行い、

荊州返還の妥協策を提案して解決しております。

このように戦略家・外交官として優秀な能力を示していた魯粛ですが、

46歳という若さで亡くなってしまいます。

魯粛の死後、息子の魯淑(ろしゅく)が跡を継ぐことになります。

魯粛の跡を継いだ事を知った張昭(ちょうしょう)の息子・張承(ちょうしょう)は、

人物鑑定に一格言あり魯淑を見て「あの人は孫呉の重要拠点である濡須(じゅしゅ)を

しっかりと守るだけの能力を備えている人物だ」と述べており、

魯淑が優れていた人物であることを示すエピソードと言えるでしょう。

魯淑は父の死後しっかりと武功を積んでいき、昭武将軍・都亭侯の位が与えられ、

武昌(ぶしょう)を任されることになります。

魯淑は数年後夏口を任されることになります。

こうして魯淑は孫呉の要衝を任されることになりますが、

任地では厳格な統治を行い反乱や賊徒の横行を許さなかったそうです。

更に事件や業務をしっかりと捌ききる能力を有しており、

魯粛に似た政治手腕を発揮した人物と言えるのではないのでしょうか。

 

名将・曹仁を打ち破った勇将の息子・朱異も勇将だった

 

曹丕は皇帝に君臨すると張郃(ちょうこう)曹真(そうしん)曹休(そうきゅう)

曹仁(そうじん)など魏のオールスターとも言うべき将軍を揃えて孫呉へ攻撃を行います。

孫権は濡須へ曹仁軍がやってくることを知ると朱桓に兵を指揮させて、

迎撃を行わせます。

朱桓は自らの兵士が曹仁軍よりも少ないことを知っていましたが兵士達へ

「兵数の多い少ないで戦が決するわけではない。

兵を率いる将軍の優劣で決まるのだ」と激励。

朱桓は兵士を激励した後兵を率いて曹仁の軍へ攻撃をかけて、

大勝利を収めることに成功します。

こうして朱桓の名前は孫呉や魏で勇将として知られることになり、

その後もいくつもの戦で大活躍。

だが勇将・朱桓も老いには勝つことができずに62歳で亡くなってしまいます。

朱桓が亡くなった後、息子である朱異(しゅい)が跡を継ぐことに。

朱異は父の兵士をあずけられる地位に昇格すると朱然(しゅぜん)と一緒に出陣することに。

朱異は朱然と共に荊州の樊城(はんじょう)攻略戦に参加し武勲を稼ぎます。

また朱異は盧江(ろこう)の太守であった文欽(ぶんきん)が築いた砦を急襲して、

破壊することに成功。

さらに孫権死後、魏軍が攻撃してきた東興(とうこう)の戦いでは、

魏軍が建設した浮橋を破壊して孫呉が大勝利を得る契機を作り出します。

こうして父に劣らない武勲を上げていった朱異ですが最後は非常に哀れでした。

魏の諸葛誕(しょかつたん)は寿春(じゅしゅん)で司馬家に対して反乱を起こします。

諸葛誕は独力で魏軍を相手にすることができないと考えていた為、

息子を孫呉へ人質として預けて援軍を要請。

孫呉は諸葛誕の要請を受け入れて大将軍・孫綝(そんちん)を援軍として、

寿春へ派遣することを決めます。

朱異は諸葛誕救援軍に参加して寿春へ向けて出陣することに。

孫綝は朱異に軍勢を預けて寿春城を包囲している魏軍を打ち破るように命令。

朱異は軍勢を率いて寿春城の包囲を破るために軍勢を率いて攻撃を行いますが、

敗北してしまいます。

しかし朱異は一度の敗北で諦めずに孫綝へ兵士を増強するように要請を出します。

孫綝は朱異の要請を受け入れて兵を割いて朱異へ与えることに。

朱異は孫綝から増援を受けると再び寿春城の包囲を破るべく魏軍に攻撃を仕掛けますが、

再び魏の包囲軍の迎撃を受けて敗北。

更に魏軍の別働隊によって朱異軍が保有していた兵糧庫を焼き払われてしまいます。

朱異は孫綝へ「魏軍に敗北してしまいました」と報告。

孫綝は朱異の報告を聞くと「もう一回増援を向かわせるから、再度攻撃を行え」と

命令を受けます。

朱異はこれ以上寿春城の包囲軍へ攻撃を仕掛けても、

勝つ可能性が無い事を二度の敗戦で知っていたため、

孫綝へ「もう一度攻撃を仕掛けても勝てないため、

攻撃をかけるのは諦めたほうがいいでしょう。」と提案します。

孫綝は朱異の提案を聞くと激怒し「今すぐ本陣へ出頭せよ」と命令を出し、

出頭してきた朱異を捕縛して処刑してしまいます。

孫呉の勇将として父・朱桓に劣らず他国にその名を轟かした朱異ですが、

性格的な問題点も無く罪を犯したわけでもないにも関わらず、

無念な最後を迎えることになってしまうのでした。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

父・周魴は謀略家だが息子は闘将としてその名を知られた周処

 

周魴は孫権と謀略を重ねます。

その後周魴は自ら髪を切って曹魏へ投降する旨を伝えます。

魏の揚州刺史(ようしゅうしし)であった曹休(そうきゅう)は周魴の降伏を信じて、

孫呉へ侵攻を開始。

周魴の降伏は偽の降伏で魏軍をおびき寄せるための作戦でした。

曹休が孫呉へ攻撃を仕掛けると孫呉の精鋭部隊を率いた陸遜(りくそん)、朱桓などの

将軍の猛攻を受けて敗北。

この戦いを「石亭の戦い」と言い、周魴の名前が歴史に刻まれることになるのでした。

周魴はこの戦いの貢献者として侯の位を与えられます。

だが周魴は病にかかって亡くなってしまいます。

周魴の跡を継いだのは周処(しゅうしょ)です。

周処は父と違いとんでもない暴れ者で村を荒らし狩りに興じて好き放題に生きておりました。

しかし周処は村人が数人集まってヒソヒソと「周処が居るせいで非常に迷惑だ」と

知ります。

この話を聞いた周処は激怒して村人を襲うのではなく改心して学問に励むことにします。

周処は学問にみっちりと学んだ結果、呉のラスト・エンペラー孫皓(そんこう)の時代、

役職をもらって仕えることになります。

だが周処が呉に仕えて間もなく、

孫呉は晋軍の六方面からの攻撃を受けて滅亡してしまうのでした。

晋の将軍・王渾(おうこん)は呉の首都・建業(けんぎょう)に呉の将軍や文官達を集めて、

「諸君は呉の遺臣だ。どうして悲しまないのだ」と酔った勢いで暴言を吐きます。

周処は王渾の言葉を聞いて激怒し「おいおい。勘弁してくれよ。

魏が一番最初に滅んでいるのだから、私達だけが亡国の遺臣ではあるまい。」と

やり返します。

王渾は魏の武将・王昶(おうちょう)の息子であり自らも亡国の遺臣であったため、

周処の言葉に反撃することができずに黙ってしまうのでした。

昔は暴れ者で村人を困らせていたのに学問を積んで、

成長している事を示すエピソードと言えるのではないのでしょうか。

だが周処の本当の姿は弁舌ではなく、武将として真価を発揮するのです。

 

必敗と分かっていても逃げずに戦った闘将

 

周処は晋に仕えると異民族が多い雍州(ようしゅう)にある新平太守に任命されます。

周処はこの地でしっかりと羌族(きょうぞく)の慰撫に務めたことがきっかけで、

反乱を起こすことなく平穏な統治を実現させることに成功。

だが西方の異民族氐族(ていぞく)が大規模な反乱を起こします。

晋王朝は氐族の反乱を討伐するため司馬一族や貴族出身の夏侯駿(かこうしゅん)、

周処(しゅうしょ)に討伐するように命令を出します。

討伐軍の総大将・司馬肜(しばゆう)は周処に以前痛い目に合わされており、

ここで恨みを晴らそうとします。

司馬肜は周処へ「5千の兵を与えるから氐族へ戦いを挑んで来い!!」と命令。

周処は氐族へ7万に対して5千の兵士で攻撃を仕掛ければ、

必ず負けることを知っていながらこの命令を拒むことなく出陣。

周処の軍勢は氐族へ激しく攻撃し退却することなく猛攻をかけます。

周処の軍勢はこうして一日中氐族へ攻撃を仕掛け続けていった結果、

全滅してしまいますが、氐族の軍勢にも多大な損害を与えます。

父・周魴は謀略家として曹魏へ大損害を与えた人物。

そして周魴の息子・周処は将軍として、

敵軍に多大な損害を与え全滅してしまいますが、

正に闘将と言える働きを示したのではないのでしょうか。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

魏・蜀の二代目武将達は父親に比べて、

あまり華々しい活躍する(活躍した人物もいるが・・・・)事無く亡くなってしまいます。

しかし今回ご紹介した魯粛の息子・魯淑、朱桓の息子・朱異、周魴の息子・周処は

それぞれ父親に劣るとも優らない活躍をした自慢の息子達と

言えるのではないのでしょうか。

魏・蜀に比べて呉の方が三国志後半、

二代目武将達が華々しく活躍しており面白い一面を見せているのではないのでしょうか。

 

参考文献 新人物文庫 三国志それからの系譜 坂口和澄著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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