三国志でスポットライトを当てられる最大のライバル同士といえば「曹操VS劉備」です。プロ野球でいえば「巨人VS阪神」、サッカーだと「バルサVSレアル」、ゴルフだと「松山英樹VS石川遼」といった注目カードのようなものです。そんな曹操と劉備が初めて直接対決したのが徐州を巡る戦いになります。発端は曹操の「徐州大虐殺」でした。
曹操にとって最大の汚点
曹操の歴史の中で最大の汚点とされる徐州での大虐殺は、193年のことです。前年には都・長安の地で董卓が呂布に殺されています。曹操はこの時、兗州の牧となって近隣諸国を脅かす存在となりました。曹操は隣州の徐州に侵攻し、徐州の牧・陶謙を攻めます。多くの民が虐殺され、その死者は数十万を数えたそうです。家畜までも皆殺しで、死体で河が堰き止められたと三国志正史には記載されています。これにより曹操は後々まで徐州出身者の恨みを買うことになるのです。
徐州の生まれとしては、東城県出身の魯粛や陽都県出身の諸葛瑾・諸葛孔明などがいます。彼らは208年、荊州に侵攻してきた曹操と戦うことを主張し、これによって曹操は大軍を率いながら赤壁の戦いで敗れることになります。
なぜ曹操は徐州大虐殺を行ったのか
曹操が徐州を攻めたのは、陶謙に父親と弟を殺されたためだとされています。曹操の父親・曹嵩は、董卓によって引き起こされた戦乱を逃れるために徐州へ疎開していました。それが董卓の死によって、兗州へ帰郷できることになるのですが、そこを陶謙軍に襲撃されるのです。父親と弟を殺された曹操は怒り狂って徐州を攻めたそうです。三国志正史には二度徐州を攻めたとあり、二度目には曹操は家臣の陳宮と信頼していた朋友の張邈に裏切られ、兗州の地で反乱を起こされています。
陶謙はどうして曹操の父親を殺したのか
それではなぜ陶謙は曹操の恨みを買うようなことをしたのでしょうか?
三国志演義では、陶謙が親切心から曹嵩に護衛をつけて送り出したところ、その護衛が曹嵩の財に目がくらみ殺して強奪した設定になっています。つまり陶謙に罪はないわけです。徐州大虐殺は曹操の逆恨みであり、陶謙の窮地を救おうとした劉備は義の人物という構図になります。
三国志正史では、袁紹派の曹操と劉表が袁術の軍勢を各地で撃破しており、袁術派の陶謙がそれに対抗して曹操の父親のいる琅邪を攻めた設定になっています。つまり陶謙は意図的に曹操の父親を殺害したわけです。公孫瓚も袁術派でしたから、援軍として劉備は徐州に向かうことになります。ただし、呉書には陶謙の家臣の張闓の独断で曹嵩を殺害したとあり、三国志演義でのこのシーンは、正史ではなく呉書を参考にして書かれたものだと考えられます。
前年の兗州侵攻が布石なのか
曹操が兗州の牧となったのは、前任の牧であった劉岱が青州から侵攻してきた百万に及ぶ黄巾の残党に殺されたためです。曹操は劉岱に代わり、死力を尽くして黄巾の大軍と戦い抜き、奇跡の勝利を収めます。この時、曹操軍に編入された黄巾の兵卒30万が有名な精鋭「青州兵」です。
黄巾の残党百万がなぜ兗州に侵攻したのか、その兵站はどうなっていたのかを考えた時、徐州の陶謙が密かに黄巾に通じて兵糧を供給し、侵攻の矛先を兗州に向けさせたという可能性もあります。あわや兗州は黄巾の大軍に飲み込まれるところだったわけですが、その仕返しもあって曹操は陶謙を執拗に攻めたのかもしれません。
三国志ライターろひもと理穂の独り言
徐州大虐殺で非難を浴びている曹操を擁護する気はまったくありませんが、曹操だけを悪者としてアピールしたがる三国志演義を鵜呑みにするのもどうかと思います。三国志正史を読む限り、徐州を支配していた陶謙もまた悪知恵の働く人物だったようです。果たして曹操はどんな思いで徐州を攻めたのでしょうか。どちらにせよ「怒り」が強かったのは間違いないはずです。
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