なんか意地悪なイメージがあるけど、曹丕って実際どんな人だったの?

2018年9月1日


 

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曹丕と曹植

 

実の弟である曹植(そうしょく)を生涯にわたってド突き回した

意地悪お兄ちゃんのイメージが定着している曹丕(そうひ)

 

三国志演義』では、

異母弟の曹熊(そうゆう)をビビりあがらせ自殺に追い込み、

曹植には七歩歩き終わる前に詩を作れなかったら自殺しろと迫る

とんでもない極悪お兄ちゃんとして描かれていますが、

彼は実際どのような人物だったのでしょうか?

 

そんな曹丕の軌跡を追ってみたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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たくさんの息子たちの中の一人でしかなかった曹丕

幼い頃の曹丕と親父な曹操

 

曹丕は魏の初代皇帝として君臨しますが、

元々、曹操(そうそう)にとっては

たくさんいる息子のうちの一人に過ぎませんでした。

 

曹丕は元々側室の息子で、

正室の丁夫人(ていふじん)が息子として育てていた曹昂(そうこう)

曹操の後継ぎと考えられていたのです。

 

しかし、張繍(ちょうしゅう)から奇襲を受けた際、

曹昂は未亡人の魅力に憑りつかれて腑抜けになった父を庇い、

命を落としてしまいます。

そして、これを恨んだ丁夫人も実家に帰ってしまいました。

 

そんなわけで、曹丕の母・卞氏(べんし)が繰り上げ昇格して正室となり、

曹丕が継承者の最有力候補となったのでした。

 

 

 



後継ぎになれると思ったら…

曹沖

 

ところが、曹昂が亡くなってすぐに

曹丕が継承者として認められたわけではありませんでした。

まず、曹操には最愛の息子・曹沖(そうちゅう)がいました。

 

曹沖は幼い頃から飛びぬけて頭が良く、

その上、地位が高い者なら

誰も歯牙にかけないような木っ端役人にまで

優しく接する徳の高さを持ち合わせていましたから、

曹操は曹丕ではなく曹沖を後継者にしたいと考えていたのです。

 

ところが、曹沖はたったの13歳でこの世を去ってしまいます。

曹丕は曹沖と大変仲が良かったため、

その死を大変悼んでいたのですが、

あろうことか曹操がとんでもない言葉を曹丕にぶちまけます。

 

私にとって曹沖の死は大きな悲しみだが、

お前にとっては大きな喜びなのだろう。

これでお前が私の後継者になれるのだからな。

 

こんなことを言われてショックを受けない息子がいますか…!?

そして更に、曹丕の心をざわつかせる出来事が…。

 

曹植の裸踊りに感銘を受けた(?)邯鄲淳(かんたんじゅん)

曹植の素晴らしさを説いて回ったために、

曹植を後継者にしようとする臣下たちが暗躍。

彼らに散々嫌がらせを受けた曹丕は、

曹植への恨みを募らせていきました。

 

しかし、ようやく曹丕が後継者として

曹操に認められる時が来ます。

晴れて太子になった曹丕は、

曹植とその側近たちに復讐を開始。

 

曹操の死後は曹植を遠方に飛ばし、

その側近たちに次々と死を賜ったのでした。

 

よかミカンのブラック三国志入門

 

 

儒教ではなく文学による統治を

曹植を蹴落とした曹丕

 

魏王となった曹丕でしたが、

その後間もなく献帝(けんてい)から帝位を譲り受けます。

 

献帝からの申し出を十数回辞退して、

それでもと言うから仕方なく帝位を譲り受けたということになっていますが、

これは形だけのものに過ぎず、

実際には献帝から帝位を奪ったと考えるのが自然でしょう。

 

何はともあれ帝となった曹丕ですが、

呉に3度も出兵して全て失敗したために

孫権(そんけん)に完全にナメられて皇帝を自称されてしまいます。

 

このように、外征面では失敗続きだった曹丕ですが、

彼の内政は安定していたと言われています。

 

そして曹丕は、

詩文をこよなく愛した風流人でした

そんな彼の特筆すべき功績といえば、

やはり「文章経国」を説いたことでしょう。

 

文章には国を治める力があるというこの考えは、

その後漢民族だけではなく日本にも受け継がれ、

漢民族を高い文化を誇る民族として

長い間高い地位に君臨させ続けました。

   

 

三国志ライターchopsticksの独り言

 

曹丕は帝になってから数年で崩御してしまったがために、

それほど多くの功績を遺すことはできませんでした。

そのため、彼について酷評する人たちも少なくありません。

 

しかし、父に冷たく突き放されても、

その父の背中をひたむきに追い続け、

父の夢を叶えようと奔走した彼の人生は

評価されるに値するものであるように感じられます。

 

もし彼がもっと長生きできていたら、

魏が蜀や呉を呑み込む日が訪れることもあったのではないでしょうか。

 

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