曹操最初の妻丁氏とその一族の哀しき運命

2018年12月22日


 

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曹操と妻たち

 

魏の曹操(そうそう)の妻と聴いてピンくる人は、(べん)夫人が多いはずです。確かに卞夫人は皇后ですが彼女は曹操の〝後妻〟です。曹操の最初の妻は(てい)夫人と言います。(はい)国の人であることから、曹操と同郷と分かります。つまり政略結婚です。

 

残念ながら、丁夫人の名前は伝わっていません。中国では原則として、女性の名前は史料に残らないのです。(もちろん例外もあります)今回は曹操の最初の妻丁氏とその一族についての話をします。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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義理の子の養育

義理の子の養育

 

曹操の子どもで有名な人物は後を継いだ曹丕(そうひ)、詩人として有名な曹植(そうしょく)ですが、それ以前にも2人いました。曹昂(そうこう)清河長公主(せいがちょうこうしゅ)です。この2人を育てたのが曹操最初の妻丁夫人です。しかし、曹昂も清河長公主も丁夫人の実子ではありません。

 

実は曹操には劉夫人(りゅうふじん)という側室がいて、その人が2人の実の母親でした。ところが理由は不明ですが、劉夫人は早死にしました。そこで丁夫人が2人を養育していたのです。歴史書『三国志』にも曹操と丁夫人との間の子どもについては、何も記されていないので、子宝には恵まれなかったようです。義理の子どもを育てるなんて、しっかりとした母親だと感心します。しかし、そんなしっかり者の丁夫人に悲劇が訪れます。

 

 

 



曹昂の戦死と曹操との離縁

曹昂の戦死と曹操との離縁

 

建安2年(197年)、曹操は張繍(ちょうしゅう)を降伏させますが、しばらくして張繍の寝返りにあい敗北しました。この時に部下の典韋(てんい)だけでなく、息子の曹昂も戦死させました。曹昂の戦死を耳にした丁夫人は激怒して、曹操とけんかになり実家に帰りました。

 

しばらくしたら丁夫人の頭も冷えただろう、と思った曹操は彼女の実家に行きました。丁夫人は実家で糸をつむいでおり、曹操の顔なんて全く見ませんでした。「一緒に帰ろう」と曹操は言ったが、何を言っても丁夫人は無言でした「それじゃあ、本当にお別れだ」と言って曹操は離縁しました。

 

曹操孟徳

 

周囲の人たちは、丁夫人を再婚させようとしたらしいが、結局出来なかったという話でした。曹操の後妻となった卞夫人も丁夫人が亡くなるまで、ずっと面倒を見ていました。また、曹操も丁夫人と戦死した曹昂のことは気にしていたらしく、死ぬ間際に、人にこう語っていました。

 

「もし、死人に霊魂があって、曹昂が『私のお母さんはどこにいるのですか?』と聞いたら、私はなんて答えてあげればよいのだろうか……」曹操も1人の父であり、夫だと分かります。

 

 

曹操孟徳

 

 

 

丁一族の1人丁儀

丁儀

 

曹操最初の妻丁夫人については話しましたが、次は彼女の一族についてです。丁夫人は曹操と同郷であることは、すでに書きました。この丁一族から曹操政権の幹部にまでなったのが、丁儀(ていぎ)でした。丁儀は目が不自由ですが、詩文に長けていたので曹操政権では重宝されていました。しかし、その彼にも悲劇が訪れました。

 

彼は曹丕と曹植の後継者争いの時に、弟と一緒に曹植を推薦しました。それが曹丕の逆鱗に触れてしまい、曹丕が皇帝即位後に弟と一緒に粛清されました。もともと曹丕は丁儀が嫌いであったらしく、曹操が生前に自分の娘の清河長公主と丁儀を結婚させようとした時に、目が不自由なことを理由に難癖をつけて結婚を破談にしました。

 

曹操もその時は「うん」と頷いてしまったのですが、後日改めて丁儀に会うと才能に溢れた人物だったので、「曹丕にだまされた」と気付いたのでした。しかし、その時にはすでに遅かったという話でした。こうしてみると、丁一族はあまりにも悲劇的な人が多いことが分かります。

 

 

 

三国志ライター 晃の独り言 丁一族の後日談

三国志ライター 晃

 

もう少し話したいのですが、今回はここまでにします。余談にですが、丁一族の伝記は歴史書『三国志』には記録されていません。『三国志』の著者の陳寿(ちんじゅ)が貧乏で困っていたので、生き残った丁儀の子孫に対して、こんな話を持ち掛けたようです。

 

「米をください。そうすれば、ご先祖のよい伝記を私が執筆してあげます」びっくりした丁儀の子孫は断ったという話でした。一方、断られた陳寿も怒って丁一族の伝記は『三国志』に作らなかったという話でした。もっとも、この話も研究者たちの間で真偽の論争があります。

 

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一騎打ち

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
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