周瑜は諸葛亮のピエロに過ぎなかった!?孔明と周瑜の関係性を考察

2019年7月30日


 

歳をとっても元気な孔明

 

諸葛亮(しょかつりょう)は蜀(221年~263年)の丞相です。(220年~265年)と死ぬまで戦ったことから後世から忠義の臣と言われています。

 

周瑜 美男子

 

一方、周瑜(しゅうゆ)は呉(222年~280年)の将軍であり、建安13年(208年)に「赤壁の戦い」で曹操(そうそう)を破った呉の最大の功労者です。この2人はライバルと言われますが史実では2人にライバルと言えるような交流はありません。

 

周瑜と孔明

 

そこで今回は『三国志演義』での諸葛亮と周瑜の関係について解説します。

 

※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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最初の出会い

曹操

 

建安13年(208年)に曹操が南下して呉を滅ぼそうと企みます。

魯粛、孫権、張昭

 

当時の呉では降伏論と主戦論に分かれました。

 

孔明

 

諸葛亮はこの時、劉備(りゅうび)の使者として孫権(そんけん)魯粛(ろしゅく)のもとにいました。

 

呉の孫権

 

孫権は「降伏しましょう!」「戦いましょう!」と毎日言われてダウン状態。

 

周瑜の魅力

 

そこで亡くなった孫策(そんさく)の友人の周瑜に相談することに決めます。早速、相談を受けた周瑜は魯粛・諸葛亮と話し合いをします。

 

周瑜

 

ここで周瑜は、民を巻き込まないために降伏することを主張しました。周瑜は思った以上に大人の対応です。すると諸葛亮は「曹操があっさりと帰ってくれるよい方法を私は知っています」と言いました。

 

周瑜と魯粛は「どんな方法ですか?」と尋ねます。

 

「周瑜殿、あたなの奥さんを曹操に差出して、NTRさせます。そしてあなたが涙を流せばよいだけです。すると、呉では『三国志演義』の薄い本が大量生産されて、国が発展するという・・・・・・」

 

スイマセン、途中から調子に乗ったので真面目にやります。

 

大喬と小喬

 

曹操が周瑜の妻の小喬(しょうきょう)を欲しがっていたのは事実です。

 

大喬・小喬侍らし酒を飲みたい曹操

 

これを聞いた周瑜はプッツン。開戦に踏み切って、大勝利をします。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

これは小説に直接書いていないから分からないのですけど、どうも諸葛亮は周瑜が激しい性格だと知っていたから、わざと怒らせて開戦に踏み切らせたという説があります。諸葛亮は周瑜をピエロのように操ってみせたのです。

 

 

 



周瑜死す

水面に弱気な自分が映る周瑜

 

周瑜はその後も諸葛亮からザコ扱い。

 

周瑜

 

チート丞相である諸葛亮の前に周瑜は次々とフルボッコ。

 

劉璋(りゅうしょう)

 

建安15年(210年)には蜀の劉璋りゅうしょう)の討伐に行こうとするのですけど、それも諸葛亮から読まれてしまい、徹底的に邪魔されます。

 

 

怒り狂った周瑜は前に曹仁(そうじん)との戦いで負った傷が悪化して、この世を去りました。享年36歳。最期の言葉は、「天はこの周瑜を生まれさせておきながら、どうして諸葛亮も生まれさせたんだ!」周瑜は死ぬまで諸葛亮のピエロです。

 

 

葬式でも馬鹿にされる周瑜

周瑜逝く

 

周瑜が死んだので諸葛亮は葬式に行きます。呉では将軍たちが「諸葛亮を殺して周瑜の敵を討とう」と騒ぎます。

 

趙雲子龍

 

だが、魯粛の説得と趙雲(ちょううん)の護衛のおかげで諸葛亮に手が出されることはありません。諸葛亮は周瑜の棺桶の前で弔文を読みました。詳しい内容は飛ばしますが簡単に言うと「周瑜殿、最高っす!マジでリスペクトしてました」という感じ。

 

孔明

 

それを聞いた呉の人は感動の涙を流します。もちろん、これは諸葛亮の社交辞令です。呉との関係を悪化させないために周瑜の葬式を利用しただけです。葬式まで利用される哀れなピエロの周瑜でした。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が諸葛亮と周瑜の関係でした。

 

諸葛孔明

 

結局、『三国志演義』の諸葛亮からすれば周瑜は利用しやすいピエロの1人なのです。『三国志演義』の作者がここまで周瑜に冷たい理由は何か、全く理解できません。よほど正史『三国志』が面白くなかったのでしょうね。

 

ところで、周瑜の次に諸葛亮のピエロとなる人がいます。

 

司馬懿

 

それは司馬懿(しばい)です。

 

 

※参考文献

・井波律子『三国志演義』(岩波新書 1994年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
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