三国志の英傑曹操、彼は青州黄巾賊を吸収した後に兗州を拠点に自立します。
しかし、その後、徐州で曹操の父、曹嵩が刺史陶謙の配下に殺害され、曹操は報復に燃えて徐州に侵攻し兵士ばかりでなく
一般庶民に至るまでを殺戮。
これは徐州大虐殺と呼ばれ、曹操の消える事がない悪名になりました。
曹操は、その後悪名に苦しめられ、何とかこれを消し去ろうと後漢最期の皇帝、献帝を迎えたのです。
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この記事の目次
後漢書陶謙伝に記録される凄まじい虐殺
人が死ぬ事など、少しも珍しくない後漢の末期において徐州大虐殺が取り沙汰されたのは、虐殺した人数の凄まじさがあるのかも知れません。
後漢書陶謙伝によると、以下のようにあります。
十五の県城を落とし数十万の住民を殺した。泗水の流れは無数の死体の為に淀み、無人の都市が残された。
機関銃もない大昔、数十万という数字は誇張もあると思いますが、三国志の武帝紀にも、
謙將曹豹與劉備屯郯東 要太祖太祖撃破之 遂攻拔襄賁 所過多所殘戮
陶謙の将曹豹と劉備が郯東に駐屯して曹操を待ち受けるが曹操はこれを撃破、遂に襄賁を抜いた。その通り過ぎる所、虐殺が多く繰り返された。
このように記述されていて、多数の非戦闘員が殺されたのは事実のようです。
曹操、虐殺を批判した名士の長老辺譲を殺す
曹操の悪名は、これに留まりませんでした。徐州の名士では長老格の辺譲が、曹操の徐州虐殺を激しく非難した際に
これに怒った曹操は、辺譲をあっさり殺害してしまいました。
ただ、曹操の為に少し弁解しておくと、この辺譲は非常に傲岸不遜な人で兗州で曹操に仕えたものの、
常日頃、これを侮る発言が多かったようでこれを曹操に密告する人があって、曹操は処断したようです。
しかし、いかなる理由があれ、天子や大将軍でも建前上は敬い丁重に迎える名士、これあっさり殺害した曹操の振る舞いは兗州の有力者に不安を与えました。
あからさまな言い方をすると、曹操は兗州名士に見限られたのです。
辺譲殺害を切っ掛けに、曹操の腹心の陳宮は張邈と共に曹操を裏切ります。
そして、曹操が二度目の徐州侵攻を開始した隙を突いて、放浪していた群雄呂布を引き込んで兗州のボスに据えて、曹操に反旗を翻したのです。
この時、陳宮の呼びかけに従わなかった県城は、鄄城、東阿、范の三県に過ぎません。
他は、こぞって曹操を裏切ったわけで、曹操の悪名の根深さが分かります。
曹操は急いで引き返し、荀彧や夏侯惇の活躍もあり、1年間呂布と戦い、これを追い払う事に成功しますが、
このままでは、さらに兗州の名士層が叛く可能性は捨てきれなかったのです。
曹操を救った毛玠の二つの打開策
窮地に陥った曹操を救ったのは、兗州出身の毛玠という人物でした。
毛玠の提言は二つあり、一つは後漢最期の皇帝となる献帝を曹操が本拠地に迎え後漢王朝の権威を背景に、悪名を消し去るという事です。
当時、献帝は賈詡の献策で、何とか李傕・郭汜の牛耳る長安を脱出したものの帰還した洛陽は焼け野原で助けてくれる諸侯もなく、
献帝は毎日喰うや食わずの惨めな生活をしていました。
献帝を迎えると言う提言には、筆頭参謀の荀彧も賛同していて、正史三国志毛玠伝では、曹操は敬意を以てその提言を受け入れたとあります。
西暦196年、曹操は潁川郡の郡都となる許に献帝を迎え入れる事に成功。悪名を払拭して、後漢の復興を大義名分に掲げるようになります。
魏を強大にした屯田制の導入
毛玠のもう一つの提案は、屯田制の導入でした。
それまでにも屯田はありましたが、いずれも辺境付近を兵士に耕させて日々の糧を賄うという軍屯、つまり屯田兵に過ぎません。
しかし、毛玠の提案する屯田制は軍屯ではなく、民屯で、それも曹操が支配する荒れ果てた土地に、開拓者を入植させて、
牛や、種もみを高利で貸し付けて行うという食糧増産計画でした。
当時、曹操以外の大半の群雄は、食糧増産どころではなく、土地の食糧を奪い合って、なんとか生きているという有様でした。
ところが曹操は、民屯で食糧を増産したので、時間が経過するほどに生産力が強まり、他の群雄に抜きんでた実力を持ちえたのです。
献帝を援助するとこんなにお得
曹操は献帝を皇帝として敬う形を取りながらその権威を利用し魏の力を強化していきました。
実際に献帝を援助した人物には、曹操以外にも孫堅や張楊がいます。
孫堅は史実では残忍で凶暴な所があり、横柄な態度を取った荊州刺史の王叡や非協力的で反りが合わない南陽太守の張咨を独断で殺害していますが、
董卓に焼かれた洛陽を再建したり暴かれた皇帝の墓を修復したりしたので忠臣のカテゴリに入り悪事の部分が薄まっています。
また、張楊は呂布と仲が良かったと言われていて、呂布同様に并州の出身であり何進、反董卓連合軍、南匈奴の於夫羅、李傕と
節操なく手を組む相手を変えていて時には、山賊同様に城市を襲って略奪をしている事が史書から分かります。
しかし、彼は献帝の一行が困窮して洛陽に来た時に食糧を供出したり、宮殿を修復したりしているので、
やはり忠臣扱いであまり悪事が目立たないような書かれ方をしています。
このように献帝の忠臣認定されると、史書の描かれ方が良くなるようです。
三国志ライターkawausoの独り言
このように曹操は、父を殺された時に怒りに任せて徐州に攻め入り、非戦闘員まで殺戮した事で得た悪名を払拭しようと献帝を擁立して、
400年続く漢の権威で、己の悪名を薄めようとしたのです。
ただ、名士層には効果があった献帝の威光も、庶民にはあまり届かず荊州では曹操軍が侵攻してくると、荊州牧である劉琮が降伏しても
大量の難民が発生して、劉備一行と右往左往しています。
曹操もこれを見ていた筈ですが、なかなか消えない悪名に苦笑いしたのか、こんなものかと冷静だったか、どっちだったのでしょうか?
参考文献:史実三国志「演義」「正史」さらに最新発掘で読み解く、魏・呉・蜀