官渡決戦は寛治vs猛政統治モデルの激突だった!


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曹操にコテンパにされる袁紹

 

三国志前半のハイライトである官渡(かんと)決戦。

 

官渡の戦い 騎馬兵

 

三国志演義では優柔不断な袁紹(えんしょう)が果断な曹操(そうそう)に敗れるような印象ですが、実際の官渡決戦はそのような表面的な戦いではありませんでした。

それは、後漢二百年の統治理論「寛治(かんち)」が曹操の新しい統治理論「猛政(もうせい)」に破壊された1つのエポックメイキングだったのです。

 

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曹操が信奉した苛烈な統治法「猛政」とは?

承諾する曹操

 

猛政とは、儒教の基本的な統治理念である寛治に相対する理念です。

その特徴は法家を思わせるような、法や礼で厳しく人民を統治する手法でした。

しかし、猛政は別に後漢の時代に造られた概念ではなく春秋左氏伝の昭公二十年に

寛猛相済(かんもうあいすくう)とでていて、政治には厳格と調和が必要であるという意味で、すでにありました。

むち打ちで裁かれる黄蓋

 

つまり、儒教では寛治と猛政は対立する概念ではなく補完関係でした。

寛治だけでは、法も礼も弛緩してしまうし、猛政だけでは反発を招いて統治が上手くいかなくなってしまいます。

そこで、基本は広く緩く構えつつ要所ではビシッと締めるという寛猛相済が儒教の統治モデルでは重要と考える人が出てきます。

洛陽城

 

曹操が尊敬していた僑玄(きょうげん)も猛政を重視する人物でしたし曹操もそうでした。

かつて曹操が、洛陽の北部都尉だった頃に、夜間通行禁止の法を破った宦官蹇碩(けんせき)の叔父を容赦なく棒で殴り殺したのも猛政を示したのでしょう。

本来なら、「堅い事はいいじゃん、蹇碩様の叔父だぞ」で済ます所をそれでは法も礼も立たぬから苛烈に処罰するのが猛政なのです。


袁紹は名士テンプレで性格を飾った

袁紹

 

さて、三国志演義では優柔不断な性格として片付けられている袁紹ですが、その実際の性格については、正史三国志の袁紹伝に出ています。

これを箇条書きにしてみると、以下の通りです。

 

①袁紹は堂々として威厳のある顔をしていた

②身分にこだわらず、よく士人に対して下手に出たので人望を得た。

③父母の喪にあわせて六年間も服した

④喪が明けた後は、限られた人物としか交わらなかった

⑤男伊達を気取り、張孟卓、何伯求、呉子卿、許子遠等と奔走の友の契りを結んだ

⑥三公などの辟召にも応じない

⑦命知らずの壮士を飼っている

 

これらの特徴は当時の儒教道徳を身に着けた名士の理想のテンプレであり、袁紹は、なかなか英雄の素質を備えているように見えます。

しかし実際は、これが袁紹の性格というよりこうした方が人望が集まるので、かなり演技していると考えるのが正解でしょう。

事実、宦官の趙忠(ちょうちゅう)は、

「袁本初は、じっとしたまま声望を高め、お召しにも応じず命知らずの連中を飼っている。この小僧は何をするつもりでいるのか?」と語り

袁紹の叔父の袁隗(えんかい)が恐れて袁紹に働きかけ、何進(かしん)辟召(へきしょう)に応じさせています。

十常侍(宦官)

 

では、本当の袁紹の性格とはどういうものだったのか?袁紹と交流があった曹操の評価では

 

①志は大きいが智彗(ちすい)は少ない

(いか)めしい顔をしているが度胸がない

③強い者を嫌うのに威厳が少ししかない

④兵は多いが命令系統がしっかりしない

⑤将は(おごり)りたかぶり政令は一貫しない

袁紹の悪口を言う郭嘉

 

このようになっていて、テンプレ的な名士とは大分イメージが違います。

もっとも、これは袁紹との決戦を前にした曹操の言葉なので、意図的に悪く言っている可能性はあります。

ただ、④、⑤については注意して見ておく必要があります。

この組織の厳格さが存在しない部分こそ、曹操が問題視した寛治の欠点なのです。

 

【三国志の時代の流れを決定付けた重要な戦い】
官渡の戦い特集


寛治に拘ったテンプレ名士袁紹は力を発揮できなかった

 

袁紹は自身を後漢においてオーソドックスな名士に規定して振る舞います。

実際に袁紹は、四世三公(よんせいさんこう)の自身の知名度を最大限に生かして、多くの名士を集めました。

しかし名士たちは、それぞれ在地権力を背後に持っているので名士集団が組織内で権力を握ると、それぞれの派閥が主導権争いをし

君主の権限が制限されてしまうのです。

さらに、彼ら名士は後漢政権の寛治に慣れ切っていました。

李カク、郭わい、献帝

 

これが安定した時代なら、派閥の論理でポストを切り分けながら共存という方法も不可能ではなかったのですが、

官渡決戦のような決断力が必要な場では、ひたすら鈍重な組織になり、何も決断できず人材の層の厚さを活かせませんでした。


郭嘉が説いた十の勝因にも猛政の思想がある

郭嘉

 

どこまでも寛治にこだわり決断できなかった袁紹陣営に対して、曹操は寛治と猛政を使い分けて対応していました。

名参謀として名高い郭嘉(かくか)は、正史三国志郭嘉伝が引く傅子(ふし)で曹操が袁紹に勝利する十の勝因で寛治と猛政について次のように言います。

 

・漢の政治は寛緩(かんえん)で失策したが袁紹は寛をもって寛を救済しようとするので(ただ)す事が出来ない。

一方曹操は、猛でこれを糺すので上下とも制令を知っている。

朝まで三国志 曹操

 

郭嘉もまた、寛治と猛政について熟知し寛治ばかりで押し通す袁紹の組織はひたすらにゴタゴタするばかりで決断できないと見ていたのです。

組織の不和は結局、不満分子の許攸(きょゆう)を曹操に投降させる事に行きつき、袁紹軍の大敗に繋がってしまうのです。

 

袁紹の過去の栄光はしぶとかった

美化された袁紹に羨む袁術

 

しかし敗れたとはいえ、曹操は結構な辛勝(しんしょう)でした。実際に曹操陣営からは多くの武将が袁紹に内応の手紙を出しています。

それだけ袁紹は、曹操陣営から見てもキラキラ眩しかったのです。

また、袁紹が寛治の精神で統治した河北の人民は袁家の支配を懐かしみ曹操は河北を平定するのに七年の時間を費やしました。

赤鎧を身に着けた曹操

 

漢民族ばかりではなく遼西烏桓の蹋頓(とうとん)は利益度外視で、袁紹の遺児である袁煕(えんき)袁尚(えんしょう)を匿い曹操に討伐されるまで頑張り続けました。

後漢の栄光を引き継ぐ袁紹の寛治も、一方では魅力的であり続けたのです。

やはり曹操はギリギリで勝利を拾ったというのが正直な所で戦争の連続である曹操の生涯でもしんどい部類に入るのが官渡でしょうね。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

曹操は基本名士を優遇しましたが、名士が虚礼を前に出したり、生意気な態度をとると苛烈な処置を取りました。

 

孔融と禰衡

 

孔子の子孫である孔融(こうゆう)を殺したり楊修(ようしゅう)を処刑したり、荀彧(じゅんいく)に死を賜る等は曹操の猛政の部分が強く出たと言えるでしょう。

また、そうでなければ後漢を滅ぼし曹魏を興す下準備は不可能でした。

 

参考文献:史実としての三国志

 

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