袁術は悪政なのか微妙なところ?袁術は名門主義をとったので失敗した

2019年11月8日


 

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袁術

 

袁術(えんじゅつ)は後漢(25年~220年)末期の群雄の1人です。短期間ではありますが、「(ちゅう)」(197年~199年)という王朝を建国して皇帝に即位しました。

 

劉備を僻む袁術

 

しかし、統治が上手で無かったので政権は長続きせずに最後は曹操(そうそう)が派遣した劉備(りゅうび)に討たれました。この袁術は後漢に反抗して王朝を建国したので評判が良くありません。

 

袁術くんリフレ—ミングを学ぶ03 袁術

 

そこで今回は正史『三国志』をもとに袁術のブラックな側面に注目してみましょう。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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兵糧を送らない袁術

袁術

 

初平元年(190年)に諸侯は董卓(とうたく)を討伐するために一斉に洛陽(らくよう)に押し寄せました。袁術も諸侯の1人の中に入っていました。

 

袁術と孫堅

 

進軍中に長沙太守の孫堅が、董卓討伐に消極的だった南陽太守の張咨(ちょうし)を討ちます。孫堅は袁術に南陽支配権をプレゼントしてくれました。

 

袁術、孫堅(犬)

 

これ以降、孫家と袁家の同盟関係が成立します。官位や家柄の関係で袁術が孫堅の上司になります。

 

袁術と孫堅

 

孫堅はその後、陽人で董卓軍の華雄を討って功績を挙げますが袁術軍のある人物が、「孫堅がもし洛陽に乗り込んだら、もうあなたの命令に従わないでしょう・・・・・・」と言いました。

 

袁術くん10 正しく叱る方法について学ぶ04 袁術、孫堅

 

それを聞いた袁術は孫堅に心を許さずに兵糧をストップさせてしまいます。これは小説『三国志演義』にも出る話であり袁術を悪人にする話として有名です。さて、兵糧をストップされた孫堅は怒って袁術の陣まで夜から朝にかけて馬でダッシュ!

 

孫堅と董卓

 

袁術の目の前で、「私が出陣したのは国家(後漢)のためでもあり、あなた叔父さんが殺害されたから、その仇討ちのためでもあるのです。董卓に恨みなんかありません。それなのに袁術殿は人の陰口なんて信じて、私を疑うのですか!」

 

袁術

 

注意された袁術は、スイマセンと謝罪して兵糧を送ることになりました。

 

南陽時代 徴税、戦争、失敗!

袁術

 

さて、南陽を統治することになった袁術ですが、おもった以上にうまくいきません。南陽は人口も多かったのですが、袁術が税を取り過ぎてしまいます。

 

美化された袁紹に羨む袁術

 

おかげで民は苦しみました。おまけに当時、袁術は異腹兄の袁紹(えんしょう)と不仲でした。袁紹は冀州の劉虞(りゅうぐ
)
を新しい皇帝として擁立して董卓に対抗しようとしていたのですが袁術は猛反対!

 

袁術、曹操、袁紹(他人とすぐ比較する癖を直す)

 

おかげで天下は袁紹系の軍閥(曹操・劉表(りゅうひょう)韓馥(かんふく
)
など)と袁術系の軍閥(孫堅公孫瓚(こうそんさん)陶謙(とうけん)など)に分かれました。

 

孫堅逝く

 

初平2年(191年)に袁術は荊州の劉表を攻めました。出陣したのは袁術と同盟関係を結んでいる孫堅。ところが孫堅は劉表配下の黄祖(こうそ)と戦った時に、矢が命中して亡くなりました。また、袁術も曹操により撃退されて揚州まで撤退となりました。南陽時代の政治は散々でした。

 

皇帝時代 名門主義で失敗! そして滅亡へ

先読み袁術

 

建安2年(197年)に袁術は皇帝に即位して、仲という国を建国します。袁術は皇帝になると自分の家柄をブランドとして使用します。袁術の家は「四世公輔」・・・・・・四代に渡り三公(司徒・太尉・司空)を出した名門の家でした。

 

 

皇帝になった袁術は腹心も名門の人物をそろえることにします。幼い頃から交際のあった徐州の名士である陳珪(ちんけい
)
陳登(ちんとう)の父)や、司徒の張歆の子である張範(ちょうはん)張承(ちょうしょう
)
兄弟。さらに太尉の楊彪(ようひょう
)
楊脩(ようしゅう
)
の父)とは姻戚関係を結びます。

 

陳珪

 

ところが交際のあった陳珪は子を人質にとられても袁術に従わないと言って仕えることを拒否。張承も袁術の正当性に疑問視をしました。このように袁術の皇帝即位は当時の人々から理解を得ることは難しかったのです。

 

それはなぜかと言うと、袁術は「四世公輔」という後漢の官職を利用しているにも関わらず、後漢の存在を否定するという矛盾が生じているからでした。当時の知識人の頭上には「?」が何個も付いたことでしょう。

 

袁術

 

後漢を否定するということは、その辺の反乱軍と同じ目線で見られていた可能性も高いのです。こうしたことから人々がついてくることはなく、袁術の国はわずか3年で滅ぼされることになったのです。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が袁術の悪政に関しての話でした。袁術は建国に関してはプランが早すぎたということが難点です。せめて後漢が滅びるか、献帝が亡くなるまで待ちながら行動するべきだったのではないでしょうか?

 

袁術くん5話 先延ばしの癖をどうすれば直せるのか03 袁術

 

目先の利益につられて行動したから、おそらく失敗したのでしょう。こうして見たら、「なんだよ袁術ってダメな奴だな!」と読者の皆様は思うかもしれません。

 

袁術

 

でも袁術はダメな部分ばかりではありません。人として良い部分も持っています。今回は袁術のブラックな個所ばかり解説しましたが、次回は袁術のグッドな部分を解説します。

 

※参考文献

・渡邉義浩『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書 2011年)

 

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袁術祭り

 

 

 

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