魏の五虎将軍の一人である于禁、沈着冷静で部下に懐かれない程、法に厳格で曹操の絶大な信頼を得ていた于禁。
于禁は、襄樊の戦いの長雨でうっかり関羽に降伏したせいでそれまでの信頼を失い、曹丕に侮辱され失意の生涯を閉じたと言われています。
しかし、正史三国志を見てみると、于禁のうっかりは襄陽の戦いだけではないようです。
今回は、于禁が罰ゲームで兵糧を運んだ陳蘭・梅成の乱を考えます。
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この記事の目次
赤壁直後に発生した陳蘭・梅成の乱
陳蘭・梅成の乱の乱というと馴染みがない人も多いと思います。
それはそうでしょう、今、kawausoが命名したからです。
というのも、この反乱にはこれという名称がついていないので呼びにくく便宜上、このように呼ぶ事にします。陳蘭・梅成の乱は、西暦209年、赤壁の戦いで曹操が敗北した隙を突いて揚州の灊山という山岳地帯で自治を許されていた陳蘭と梅成が曹操に反旗を翻した事件を指します。
陳蘭とは、元々袁術の配下で袁術の没落で見切りをつけ雷薄と共に独立。その後、盧江太守の李術が揚州刺史の厳象を殺して周辺地域が混乱した隙を突き長江・淮河一帯で暴れ回りました。しかし、曹操が派遣した新任の刺史の劉馥が合肥に赴任して入城すると雷薄は降伏し一定の自治を任されました。(陳蘭の動向は不明)
ところが日和見の山賊気質は変わらず赤壁で曹操が破れると性懲りもなく再び叛きます。
ここで、于禁が大きなチョンボをしてしまうのです。
大甘、降伏した陳蘭を許してしまう于禁
さて、陳蘭と梅成が反乱を起こすと、曹操は臧霸と于禁に梅成を討伐させ、張遼と張郃に陳蘭を攻撃させました。梅成は、臧霸と于禁がやってくると軍勢三千人を率いて降伏しました。ここで、于禁が大甘な対応をしてしまいます。梅成の「降伏します」という言葉を信じて軍を帰還させてしまったのです。
これは、不公平な対応でした。かつて于禁は旧友の昌豨が曹操に反乱した時は、包囲してから降ったものは許さないという軍律を厳格に適用して自らの手で昌豨を斬っていたのです。今回の梅成は包囲する前に降ったのかも知れませんが、状況次第で叛く山賊を口約束で開放してしまったのは痛恨のミスでした。
案の定、于禁と臧霸が撤退すると梅成と三千人の手下はまた叛き、灊山に立て籠もっていた陳蘭に合流します。
于禁は法の権化らしくない判断の甘さから、張遼と張郃の仕事を増やしてしまったのです。
戦争を長引かせた罰として食糧補給を担当
張遼と張郃からすれば、「お前、何してくれてんねん!」という話です。真面目に灊山を攻略しようとしていたのに、于禁のせいで倒さないといけない賊が三千名も増えてしまったのです。正史三国志の于禁伝と張遼伝を見てみると、どうやら賊が増えたせいで魏軍には深刻な食糧不足が生じたようです。
また陳蘭と梅成が立て籠もる灊山は、高い山が連なる氐の根拠地で道も狭くようやく人が一人通れるような狭い道が続いているだけでした。
食糧に乏しく兵力は少ないので、前線では戦いを困難視していました。
その為、失態を侵した于禁は、前線で戦い続ける張遼と張郃に懸命に食糧を運搬して、その戦いをサポートする事になります。
張遼は、狭い隘路を勇気をもって踏破し、灊山の麓に陣を敷いて何とか、陳蘭と梅成の首を獲る事に成功しています。
この時に曹操は、
「天山に登り、断崖絶壁を踏破して、陳蘭、梅成を斬ったのは張遼の手柄」と張遼を激賞していますが、于禁に対する賛辞はありません。
ただ于禁の食邑だけは、二百戸加算して千二百にしているので、恐らく食料輸送の手腕が評価されたのでしょう。
張遼に指揮された臧霸、別人のような活躍
もっとも、これだけだと于禁と臧霸は同罪の感じがします。しかし、この後、臧霸は張遼の指揮で陳蘭と梅成を救援しようとした呉の韓当を迎撃して何度も破り、さらに数万の兵を率いて軍船でやってきた孫権も攻撃しこれを水際で破って大勢の溺死者を出させるなど活躍しました。
注意すべきは、元々于禁と共に動いていた臧霸が次には、なぜか張遼の指揮下に入り、大活躍している点です。
これも于禁がチョンボしたお陰で、曹操が于禁から臧霸の指揮権を剥奪し、これを張遼に与えたと考えると無理なく話が繋がるように感じます。
于禁の指揮にはムラがあったのでは?
こうして見ると、冷静沈着で軍規の権化のように見える于禁は、本当は気分屋な部分があり、戦いの精度にもムラがあったのではないかと感じます。
また、昌豨は殺しておきながら梅成は逃がしてしまった背景には、やはり旧友の昌豨を軍律を盾に殺してしまった事への悔恨があったように感じます。
杓子定規ではなく、人を信じてみようと梅成を見逃した結果、まんまと叛かれてバカを見たという話で于禁は、個人としてはお人よしの部分があったのではないかと思います。
三国志ライターkawausoの独り言
そう言えば、襄樊の戦いで関羽に降伏した後の于禁も、呉の虞翻に散々罵倒された結果、魏に還って曹丕に面会した頃には白髪になって憔悴仕切り、行動を後悔して泣いていたという描写がなされています。
とても、法の権化のような冷徹な于禁のイメージと重なりません。だとすると本来の于禁は、気にしんぼで情の厚い人であったのが、その欠点を補うべく法律の遵守に拘ったのではないかという疑問が浮かんできます。
読者の皆さんは、本当の所はどっちだと思いますか?
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