蜀(221年~263年)の諸葛亮は政治の手腕にかけては一流の腕前を持っていますが、人物評価はどうも苦手だったようです。代表例は馬謖であり、彼に関しては過剰なプラス評価が魏(220年~265年)への北伐の失敗を招きます。ただし、今回は諸葛亮が行った人物評価で「吉」と出た陳震という人物について正史『三国志』をもとに解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「諸葛亮 やったこと」
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劉備に仕えて入蜀する陳震
陳震は荊州南陽の出身の人物です。彼の先祖は何をしていたのか、さっぱり分かっていないことから、徐庶と同じ単家(=庶民)出身なのでしょう。性格は誠実・純朴。絵に描いたような優等生です。
建安14年(209年)に劉備は零陵・桂陽・武陵・長沙を孫権の許可無く無断出兵して占領します。その時に陳震は劉備にスカウトされて仕えることになります。陳震が誰の推薦なのかは不明ですが、この当時の南陽郡出身の劉備配下は黄忠がいるので、彼の推薦と推測されます。陳震はその後、建安17年(212年)に劉備・龐統と一緒に入蜀。2年に渡る劉璋との激戦の末に勝利をおさめます。劉備が蜀の主になると地方の太守を歴任しますが、劉備の存命中は目立った活躍はしません。
諸葛亮から絶賛のほめ言葉
蜀の章武2年(222年)に劉備は呉(222年~280年)に出兵しますが、夷陵で陸遜と戦って敗北。白帝城まで逃げ込んだ劉備は蜀の章武3年(223年)にこの世を去りました。陳震は蜀の建興3年(225年)に中央に戻って登用されて呉へ使者として赴きます。また、建安7年(229年)に再び呉に使者として派遣されました。
この時諸葛亮は、兄の諸葛瑾に対して手紙を書きます。
「陳震の誠実・純朴な性格は老いてますます盛んなものがあります。呉と蜀の友好を促進して、なごやかに喜びをともにする時代において貴重な人材です」
呉に到着した陳震は孫権と話し合って今後も両国が互いに協力することを誓い合いました。
李厳の人物を見破る
蜀の建興9年(231年)に諸葛亮は4度目の北伐を行います。この時、蜀は魏の主力を打ち破って大勝利をおさめます。だが、兵糧を担当をしていた李厳が兵糧が足りないと報告してきたので撤退を決意します。この撤退の途中に諸葛亮は魏の名将である張郃を討つことに成功しました。
ところが、帰ってきたらビックリ!なんと李厳から「なんかあったのですか?」と変な顔をされる始末。
諸葛亮が調べてみたら兵糧不足は李厳の真っ赤なウソ!李厳は兵糧調達が出来なかったので、諸葛亮が北伐に失敗して帰ってきたと責任をなすりつけるつもりだったのでした。赤っ恥をかかされた諸葛亮は、ここであることを思い出します。実は2年前、陳震は呉に出発する前に諸葛亮に対して李厳への忠告をしていました。「李厳は腹の中にトゲがあって、郷里の南陽の人々は彼に近付けないと言っています」
李厳も南陽出身であり陳震と同郷だったのです。同郷同士はお互いのことをよく知りつくしています。
「腹の中にトゲがある」という表現は何かというと、表面はニコニコして穏やかなのですが、心中では何を考えているのか分からない人間のことを指します。
諸葛亮は李厳の普段の仕事がスムーズだったので「最高だよ!」と絶賛したり、陳震から忠告された時も「トゲなんて触れなければいいだけでしょう。彼の癇に障ることを言わなければいいだけ」と軽く見ていました。ところが、放置プレイの結果は李厳の裏切り行為。諸葛亮は思い知らされました。
「何もしなければよいと思ったが、こんな不意打ちをくらわされるとは思わなかった。陳震に知らせないと・・・・・・」と諸葛亮は反省します。読者の皆さんが知っての通り李厳はこの後、庶民に落とされました。
三国志ライター 晃の独り言
陳震は建興12年(234年)に諸葛亮が亡くなると、劉禅を補佐し続けますが、残念ながら翌年にはこの世を去りました。陳震は正史『三国志』と小説『三国志演義』の両方に登場しますが、はっきり言って地味で印象に残りません。
しかし地味なのに李厳の人物を見抜いて、それを諸葛亮に直訴するなんて大した人物です。小説『三国志演義』は、その部分を取り入れて欲しかったです。そうすれば物語後半がもっと面白くなっていたかもしれません。
※参考文献
・渡邉義浩『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』(講談社選書メチエ 2012年)
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