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部下を粛清していた孫晧も陸抗には手を出せなかった?呉の最後の忠臣の生き様

2020年2月16日


 

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曹操を殴る孫権

 

「英雄の時代」とも称される、曹操(そうそう)劉備(りゅうび)孫権(そんけん)が揃っていた時期の三国志。それぞれ部下の人材に事欠かず、胸躍るようなライバル対決が続々と展開されました。それでも、この三人の英雄には、決定的に恵まれていなかったものがありますね。

 

自称・皇帝
当記事は、
孫晧 陸抗
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三者共通の悩みはいくらなんでも絶望的な後継者問題

曹操と曹丕

 

魏呉蜀と並べてみても、どうしてこう、後継者問題が見事に共通の弱点となってしまったのでしょうか。父親が偉大すぎる家柄の男子というのは、普通には育たないのでしょうか。もっとも、曹操の子の曹丕(そうひ)には、父親があまりにも偉大すぎるから色あせて見えるだけで、もしかしたらなかなか有能だったのではないかと思わせるところがありますし、

 

海賊時代の孫堅と孫策

 

孫権(そんけん)も、父親の孫堅(そんけん)を初代、兄の孫策(そんさく)を二代目と考えれば、「孫一族として見た場合には三代続けてよい人材だった」と考えられるところはあります。いちばん苦しい立場は、二代目ですぐに没落してしまった劉備のところの家、となりましょうか。

 

劉禅と結婚する敬哀皇后

 

しかしこの劉禅(りゅうぜん)についても、言動をよくよく検証すると、単純に人の好い人物だったという解釈もできます。リーダーという意味では大問題があったとしても、人間としては憎めない男だったのではないでしょうか。

 

孫晧(孫皓)

 

それを考えると、孫晧(そんこう)と比べれば、まだマシだったのかもしれません。なにせ孫晧、リーダーとしてひどいだけでなく、人としても評価が最低クラスという人物ですから。

 

目立った活動といえば部下の粛清ラッシュ!孫晧ひきいる呉が蜀よりも長生きしたのは陸抗のおかげ?

建業を捨てて武昌に首都移転する孫皓

 

三国志演義』の記述によると、孫晧は、

 

・酒と女に溺れていた

宦官(かんがん)の言うことばかりを聞いて、他の部下の言うことをぜんぜん取り合わなかった

・というか、諫めた部下については一家皆殺しの刑を処していた

・贅沢三昧のために民衆を労役に駆り出したため、恨みを買っていた

・それでいて、蜀が滅亡した時には、「蜀の仇を討つために晋の領土に攻め込もうと思うけど、晋のどこあたりの土地なら奪えそうかなあ」という世間知らずな発言をし、周囲をドンビキさせた

 

などなど、まるでいいところがありません。

 

劉禅に気に入られる黄皓

 

宦官の言うことばかりを聞いていたというのは、劉禅にも同様な事が起こっていましたが、劉禅は少なくとも部下の大虐殺ということはしていません。そもそも人を殺すような荒々しいこととはいっさい無縁なところが、良くも悪くも劉禅の特徴といえます。

 

「それに比べてここまで非道なことをしている孫晧の呉が、よくもまあ、劉禅の蜀よりも長く生き延びたものだ、呉における姜維のように、一人で国の運命を背負っているような働き者がいたのだろうか?」と思いますよね?

 

はい、おります!

 

孫晧の唯一の功績は、陸抗を「殺さなかったこと」?

陸抗

 

かの陸遜(りくそん)の子、陸抗(りくこう)ですね。荊州という、対司馬炎(しばえん)軍の最前線の守りにつき、たびたびの晋からの攻撃にも一切、ゆるぎませんでした。

 

羊コと信頼の関係を築く陸抗(りくこう) 羊祜

 

晋のほうが派遣してきた将軍、羊祜(ようこ)との間に、敵味方を越えた友情をはぐくむなど、人格の寛さも桁違いなところがありました。国力として圧倒的な差がついていたはずの晋に対して、たびたびの「防衛戦成功」をしていただけでも、その戦績は大変なものといえるのではないでしょうか?

 

孫皓に対して戒めの手紙を書く陸抗(りくこう)

 

しかもこの陸抗の生き様には、特徴的なところがあります。別に孫晧に対して、おべっかを使ったり、遠慮をしたりは、していないのですね。荊州で奮戦をしながら、孫晧に対しては意見や提案を率直に上申したり、時には孫晧の言動を諫めるような手紙も送っています。

 

暴君・孫皓にしっかり意見を言う陸凱(りくがい)

 

他の将軍がこんなことをすれば、孫晧に真っ先に殺される、そんな恐怖政治の時代にです。そして意外なことに、孫晧も、この陸抗に対してだけは短気で虐殺するような愚はおかしませんでした。陸抗に比較的自由に仕事をさせていたという、その一点については、孫晧が君主としてやったことのなかで評価できることかもしれません。

 

まとめ:想像してみよう!晋の都には司馬炎と劉禅と孫晧が揃っていた!

孫呉討伐戦の総大将に就任した杜預

 

陸抗が亡くなった後、呉は急速に衰退し、羊祜の後任としてやってきた将軍、杜預(とよ)によって防衛線はズタズタに破壊されてしまいます。ここで孫晧は、「そういえば、蜀の劉禅は降伏して命だけは助かったらしいよね。オレも生かしてくれるかな」という、普通に考えれば死亡フラグな発想で、あっけなく司馬炎に降伏を申し出ます。

 

ところがこれまた意外なことに、司馬炎は孫晧の助命を受け入れます。

 

普に降参する孫皓

 

呉の国を明け渡すことを条件に降伏を許され、引退して晋の都に住むことになった孫晧。わりかし安泰に、長生きをしたようです。

 

ところが、そうなると、こんな想像ができませんか?

三国統一後の晋の都には、司馬炎と劉禅と孫晧の三人が揃って住んでいたわけですね。

 

三国志ライター YASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

当然、重大な行事の際には、この三人が同じ場所に会することもあったでしょう。「司馬炎と劉禅と孫晧の揃った宴席」などという、三国志ファンにとっては夢なのか悪夢なのかわからない場も、現実には何度か、実現していたのではないでしょうか?

 

司馬炎と劉禅と孫晧の宴会。

 

もしあなただったら、参加してみたいですか?

参加が強制だったとした場合、この三人のうち、誰と誰との席の間に入りますか?

 

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