皆さんは三国志の登場人物の中で「献帝」と言われるとどんな人物像が思い浮かぶでしょうか。幼少期に聡い兆しを見せた人物。董卓、曹操と利用され続けた生涯をおくった人。
漢王室の最後の帝なのにほとんど出てこない……色々なイメージがありますよね。今回はそんな献帝の生涯を、見ていきたいと思います。
かの人がどんな人生を生きてきたのか、ゆっくりと、ですがしっかりと見てきましょうね。
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献帝という人物
献帝の父親は霊帝、母親は王美人です。王美人は霊帝に寵愛されたことで兄である劉弁の母親、何皇后に毒殺されてしまいました。何皇后は何進の異母妹だったこともあり、権力は彼らに握られてしまいます。
が、189年に何進が宦官たちに殺されてしまったことで宮廷内は大混乱し、宦官に連れられてしまった劉弁と献帝はその後、董卓に保護されます。
この際に上手く話せなかった劉弁と状況をしっかりと説明できた献帝、彼らを比べて董卓は献帝を後継ぎにする決意をして、劉弁と何皇后を暗殺、献帝はこの時に後漢第14代皇帝として即位することになります。
ただしこの即位は、献帝にとって傀儡の始まりでしかありませんでした。
董卓に見出された後
異母兄と母親の政敵だったとはいえ皇后を殺害、洛陽の地は焼き払われて献帝は遷都となります。
その後も董卓は献帝の名を利用してやりたい放題、しかしその董卓は呂布に殺されました。
その後は李傕、郭汜、董承らと色々な人物が彼を保護しようとするも、最終的には曹操に保護されます。献帝の周囲にいた人々は曹操の手によって殺されてしまい、彼の妻には曹操の娘が皇后となって収まりました。
董卓にその才能を見出された献帝ではありますが、乱世においてその才が振るわれることはほぼなく、自由のない生活を強いられて来たのです。皮肉にも彼の血筋が献帝を苦しめ、そして命だけは奪われることがなかったと考えると……何だか込み上げるものがありますね。
二つの国から諡を贈られる
そして献帝は234年に没しました。234年と言えば諸葛亮が没した年でもあり、この時代においてはなかなか長生きしたことも分かります。そんな献帝には最期に諡が贈られました。
この諡は魏と蜀の両方から贈られているので、少し比較してみましょう。
魏によって贈られた諡「孝献皇帝」
蜀によって贈られた諡「孝愍皇帝」
文字を見ると分かりますが、魏によって贈られた諡である孝献皇帝から、彼が献帝と呼ばれるのが分かりますね。つまり多くの場合では、彼は魏によって贈られた諡を使用して呼ばれているのです。そしてこの諡には、彼の生涯が詰められていることも分かります。そこでこの諡の意味を見てみましょう。
諡を見るとその生涯が少しでも読み取れるか
魏によって贈られた諡「孝献皇帝」
蜀によって贈られた諡「孝愍皇帝」
まず皇帝という文字はそのままですから除外しましょう。そして二つの諡の最初に付けられた「孝」という文字ですが、これは最後、や末っ子という意味です。
つまり漢王朝の最後の子、という意味でしょう。当時、字によく伯や仲という文字を見ることが多いのですが、これも同じ意味合いがあり、伯には長男、仲には次男という意味がありました。
例として出すと、孫策は「伯符」、孫権は「仲謀」ですね。このことから年が近くて能力に遜色ない兄弟を「伯仲」と呼び、「実力伯仲」という言葉が生まれたんだとか。
さて話がそれましたがそれぞれの諡の文字の意味を見てみましょう。
「献」……博識で多方面に才能を持っているが、どの道も究められない
「愍」……国に政が欠けており、長く動乱が続いていく
という意味になります。これは短いながら献帝という人物の評価、そしてその人物が生きた時代を表されたものだと思います。最期に二つの国から贈られた諡、そこに彼の人生が詰まっていると考えると、諡もやはり考えて贈られているのだな……としんみりしてしまいました。何にせよこの諡から、献帝という人物の生涯が少し伝わってはこないでしょうか。
三国志ライター センのひとりごと
本来ならば最も貴い身分でありながら、幼少期から苦労と傀儡にされての日々。しかし献帝の生涯を振り返ってみると、傀儡にされたからこそ、長生きできたのではないか……と思わせます。
幼少期こそ優秀と詠われた献帝、彼が実際に漢王朝を運営していたらどうなったのか、ふとそんなことを考えてしまいますね。
参考文献:後漢書献帝記