王莽が建国した新からふたたび国を取り返して、光武帝が後漢を建国したのは紀元25年のことでした。三国志の物語が始まるのは12代皇帝の霊帝のころ。前漢からあわせると400年近く続いた漢の国が弱体化した時代でした。
そして曹操の息子の曹丕が、220年に漢に代わって魏という国を建国します。このとき漢から魏に「禅譲」が行われました。今でも海外の政治のニュースで使われる言葉ですが、世界の歴史を振り返ってみても、禅譲は中国独特の現象でした。そんな禅譲とはどんなものだったのかを紹介します。
禅譲という平和的なクーデター
禅譲とは、ある王朝が次の王朝へ平和的に国を譲ることを言います。選挙というシステムがなかった時代には、世界のほとんどでは武力によって前の国が打倒され、新しく国を作られてきました。もちろん中国でもそのパターンがほとんどでした。
中国では武力で新しい国ができることを禅譲とは逆のものとして、
「放伐」と呼んでいました。
禅譲は中国の伝説上の国である、尭が舜に、そして舜が禹へと国を譲った逸話がもとになっています。どちらのときも、血のつながりがないけど、トップとして有能な人に王座を渡したんですね。とはいえ、歴史の現実的な禅譲はというと、なごやかな雰囲気の中で、
「じゃあ、中国のことよろしくね」とバトンタッチされたわけではなく、結局は力で勝てなくなってしまった相手に泣く泣く国を譲っていたのが現実でした。
曹操による後漢王朝の無力化
後漢王朝のラストエンペラー14代皇帝の献帝は霊帝の次男。劉協という名前を持っていました。宦官の十常侍と霊帝の皇后の兄である何進の権力闘争の結果、漁夫の利をさらった董卓が自分の操り人形にするために即位させたのが、8歳だった劉協でした。
献帝となった後も権力闘争に巻き込まれ、ようやく曹操に保護されて安心できるようになったと思ったら、次第にその曹操の野心に飲み込まれてしまいます。
宮廷の実権は曹操に握られてしまい、彼を丞相、魏公、魏王とどんどん大きな権力を与えなくてはいけなくなったのでした。さらに皇后を曹操に殺され、曹操の娘の曹節を妻に迎えさせられたことで、実質的にはもう献帝は名ばかりの存在となっていました。
220年に曹操は死去しますが、曹家の権力は健在なままでした。
禅譲で魏が誕生
もはや風前の灯火となってしまった漢王朝。『三国志演義』では、魏の軍師である司馬懿は帝位につくよう曹丕を促します。司馬懿の意を受けた華歆は朝議の場で献帝のことを「暗愚」だとののしります。
すでに曹丕に逆らえない文官たちもそろって献帝にブーイングを浴びせます。そして華歆は「無能な王は徳を備えた曹丕様に国を譲るのが天命というものですぞ!」と迫ります。なんとも生々しいシーンで、献帝もかわいそうですが、有徳の人物に王座を譲るという禅譲の建て前を作っておきたかったんですね。
たったひとり、皇后の曹節だけが兄の曹丕に抗議しますが、圧倒的な圧力の前に献帝は禅譲を決意。曹操が死んだその同じ年に、皇帝の証である玉璽を曹丕に渡したのでした。
献帝は劉協の名前に戻り、曹節と最期まで暮らしたそうです。これによって後漢王朝は滅び、曹丕は文帝として魏の皇帝に即位します。
そんな魏も、わずか45年後に5代皇帝曹奐の時代に、司馬懿の孫の司馬炎に迫られて禅譲して魏は滅亡したのでした。
三国志ライターたまっこの独り言
本当のところはどう考えても平和的ではないけれど、禅譲のおかげで戦いが少しは少なくなっているのかなとも思います。武力で国が滅ぶよりも、禅譲はなんだか物悲しいドラマがあります。
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