初平元年(190年)に曹操と袁紹は政治を壟断する董卓討伐を名目に洛陽に向けて進撃開始。
『三国志演義』で董卓が出陣させた猛将は呂布・華雄が有名であり、彼らは汜水関・虎牢関で討伐軍を苦しめました。さて、この時の董卓軍には胡軫という人物も参加していました。彼はどのような人物でしょうか?
今回は『三国志演義』と正史『三国志』をもとに胡軫について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています。
この記事の目次
『三国志演義』の胡軫
『三国志演義』で胡軫は華雄の副将として登場します。初平元年(190年)に董卓討伐軍が汜水関に攻め寄せて来た時に、討伐軍の先鋒は孫堅でした。
孫堅を討つために胡軫は汜水関から出陣しますが、孫堅配下の程普によりあっさりと討たれてしまいます。横山光輝氏の『三国志』では数コマ登場しており、彼のために数ページが使用されていました。だから私も記憶しています。
正史三国志の胡軫
正史の胡軫はどうだったのでしょうか?
華雄と胡軫の上下関係は正史と小説では逆です。胡軫の方が上司に当たります。ちなみに涼州の名門出身だったようです。正史『三国志』に注を付けた裴松之が採用した『英雄記』という史料によると、胡軫はせっかちな性格でした。
出陣前も「今回の戦いは郡の太守を1人斬ればよいだけ」と軽く言うだけでした。そのためなのか、部下たちから反感を買っていました。要するに彼は人望が無かったのです。
不仲だった胡軫と呂布
胡軫と呂布は一緒に出陣しますが、この2人は不仲でした。前述したように胡軫の性格にいも問題があったと思われます。しかしそれだけでは片付けれない問題と思われます。理由はそれぞれの軍団にあると考えられます。
まず胡軫が率いる軍団。ここは涼州(現在のチベット)系の兵士で固められています。一方、呂布が率いる軍団、つまり旧・丁原配下は幷州(現在のモンゴル)系の兵士が多いです。要するに胡軫と呂布の対立は軍部の対立でもあったと考えられるのです。
自滅、胡軫軍!
胡軫と呂布は出陣すると孫堅がいる陽仁城を攻撃することにしました。だが、呂布や彼の部下は胡軫に従うのが嫌でたまりません。心中では孫堅が胡軫を倒してくれないか、と思っています。呂布はそこで「陽仁城にいる孫堅はもう逃走しました。さあ、今のうちに追撃しましょう!」と胡軫にデマを流します。
だまされた胡軫は、そのまま攻撃開始。ところが城中には孫堅たちがいるのですから、摩訶不思議。しかも胡軫軍は休息をほとんどとらないで、走ってきており到着したのが夜中です。胡軫軍はヘトヘト・・・・・・
そこへ呂布軍が「城内の敵が出てきました!」と更なるデマ情報!驚いた胡軫軍は一目散に逃走!しばらく走って胡軫軍はデマと気付きましたが、すでに遅く、帰って来ると孫堅軍は守りをさらに固めていたのでした。結局、胡軫はこの戦いで部下の華雄を失ってしまい、大した戦果も挙げれずに撤退することになります。
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