孫権と言えば父・孫堅、兄・孫策の意思を受け継いで呉の国を開いた孫権。
まだまだ若い19歳という年齢であとを継ぎ、強大な敵である曹操との、有名な赤壁の戦いで勝利を手に入れ天下に名を轟かせていく……そんな名君であった孫権でしたが、晩年には驚くほど老害化……ごほん、人が変わってしまったことでも有名です。今回はそんな孫権の晩年について、色々とご説明してこうと思います。
この記事の目次
孫権の前半生
まずは孫権の生涯について、軽く復習しましょう。孫権は父・孫堅と兄・孫策を早くに亡くし、19歳という若さで孫家を引き継ぐ当主となりました。
孫堅の時代からの股肱の臣下や周瑜や張昭といった後見人たちに支えられながら、自らも数多くの有望な家臣を登用していきました。
しかし208年、曹操という名前の危機が訪れます。大軍を率いて南下してきた曹操に孫家は降伏か、それとも戦うかの決断をしなければならなくなりますが、
周瑜や魯粛らの進言から孫権は戦う道を選び、見事赤壁の戦いで勝利を得ることができました。
名君の晩年に至るまで
しかし215年の合肥の戦いでは孫権の率いる大軍勢が張遼らを将とした少数の曹操軍に大敗、奇しくも赤壁の戦いでの借りを返された形になってしまいます。そして219年。
魏と手を組んで同盟者であった関羽の背後を突き、処刑。222年に義弟の復讐にやってきた劉備軍を夷陵の戦いで破り、長らく劉備に抑えられていた荊州を取り戻しました。
その後は何だかんだ合って魏から離反、呉を建国して蜀と再び同盟、魏に対抗。ここまで位が、主に三国志演義の孫権の流れとなります。
あまり知らない人も多い孫権の晩年
因みにここから孫権は呂壱事件を始めとして息子・孫登の急死で後継者問題も発生、二宮の変で陸遜を憤死させるなど老害ともいえるような行動が目立ってきます。その後251年に死去、呉は280年に滅亡。
孫権は71年の生涯を閉じるも、最後の最期でやらかした、と評価されることもありますね。しかしこの孫権の晩年について、あまり知らない人も多いかと思います。それはどうしてでしょうか?
三国志演義の構成
さてちょっと三国志演義のお話に移ります。三国志演義は物語とは言え、三国志を知る入口として他の追随を許さないほど読み物としてレベルが高いものです。
しかし三国志演義はあくまで創作の部分が強く、主に蜀、そしてその対抗として魏の出番が多く書かれています。このため三国志演義においては呉の出番は少ないのですが、その代わりとして孫権の晩年のマイナス面が描かれずに済んでいるというある意味でのメリット?も存在するのです。
このため孫権はちょっと地味だけど名君……で評価が終わってしまうことも多々ありますね。しかし実は孫権は地味などではなく、むしろかなりはっちゃけていた性格の人物なのです。
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