文醜とは、曹操と官渡の戦いで激戦して敗れた群雄、袁紹に仕えた猛将で、単体での活躍というよりは、もう1人の猛将の顔良と二枚看板として登場します。
しかし、猛将と呼ばれる割に、あまり活躍する事無く、顔良ともども関羽に斬られて死んでしまうのです。今回は三国志演義を盛り上げる、かませ犬文醜を分かりやすく解説しましょう。
文醜は醜いの?
文醜には醜いという漢字が入りますが、容姿が醜いという記述は正史三国志にはありません。一方で、三国志演義では、身長8尺で獬豸のような顔とされます。カイチは麒麟のような顔だそうで容貌魁偉ではありますが、不細工とは違うでしょう。
ただ、相方の顔良の字面との兼ね合いで、ゲーム等では強いけど、むさくるしい醜男として描かれる事も多いですね。
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顔良との関係
顔良と文醜は、正史三国志においては、袁紹軍の二枚看板というだけで、血縁関係などの説明はありません。しかし、三国志演義では、どちらも関羽に斬られる事から、兄弟同然の親友という設定になっています。
ちなみに三国志演義での文醜は、関羽に斬られていますが、正史では誰に斬られたか明記されないまま、混戦の中で死ぬといういささか情けない最期を迎えます。
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正史三国志での文醜
正史三国志での文醜は、孔融が袁紹軍の二枚看板として曹操に戦いを諫めるほどの豪傑です。
西暦200年の官渡の戦いの前哨戦、白馬の戦いで、二枚看板の1人顔良が関羽に討たれた後、曹操が白馬から引き揚げて黄河に沿って西へ移動したために、袁紹はそれを追い黄河を渡り南岸の延津に到達しました。
ここで、袁紹は文醜に客将の劉備と共に曹操を追撃させます。曹操は、追撃してきた文醜と劉備に対し、軍師、荀攸の進言に従い、猪突猛進の文醜の性格を利用して、わざと補給部隊を文醜の前に囮として出しました。
文醜は、見事に引っ掛かり自分だけ曹操軍に突進したので曹操軍に包囲され、混戦の中で討ち取られました。ちなみにこの時、劉備は囮に気づいて引き上げています。
孔融は脅威とみなした文醜ですが、曹操の部下である荀彧は、
「所詮は武力一辺倒のイノシシ武者であり、わずか1戦すれば生け捕れます」と答え、その通りになりました。
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三国志演義での文醜
三国志演義の文醜は、豪傑エピソードが足されています。最初の出番は、界橋の戦いで敵のボスの公孫瓚を追い回すカッコイイ役で登場しました。しかし、公孫瓚を討つ事はできず途中で袁紹を見限り、公孫瓚についた趙雲に追撃を阻止されます。
次に史実通りに白馬の戦いで相方の顔良が関羽に討ち取られると、仇を討つために劉備と出陣、荀攸の計略にハマって補給部隊を深追いして曹操軍の只中に取り残されました。
ただ、ここからの文醜の奮戦は華々しく、追撃してきた張遼を弓で射落とし、さらにとびかかってきた徐晃をも退けます。
しかし、三番目にやってきた関羽との打ち合いでは、すぐに分が悪くなり逃亡。逃げる途中に関羽の一撃を背中に受けて死亡しました。
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