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孫峻とはどんな人?小心者で暗殺を回避!でも心を病んで死ぬ小粒悪党

2020年12月7日


 

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孫峻

 

孫峻(そんしゅん)は呉の王族に連なる人物であり、諸葛恪(しょかつかく)を誅殺して後、独裁体制を敷き従弟(じゅうてい)孫綝(そんちん)と併せ西暦253年から259年まで6年間呉で権力を握りました。

 

しかし、その政治は誅殺した諸葛恪同様、それ以上の独裁政治になり、暗殺計画が続いて健康を損ない、ついには、死んだ諸葛恪に殴られるという不思議な夢を見て以来、衰弱が激しくなり死んでしまうのでした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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晩年の孫権の信頼を得る

孫権に気に入られる孫峻

 

孫峻は字を子遠(しえん)と言い、建安24年(西暦219年)に孫恭(そんきょう)の息子として誕生します。孫峻は孫堅(そんけん)の弟孫静(そんせい)曾孫(ひまご)にあたり王族でした。

 

孫静

 

曾祖父の孫静は、兄系統の孫一族とは距離を取っていましたが、孫の孫恭は積極的に呉の宮廷に出仕、重んじられて散騎侍郎(さんきじろう)となります。孫恭の息子が孫峻で若くして弓馬の達人で、性格も大胆で果断と孫権に好まれる性格であったので、孫権の晩年には武衛都尉になって侍中となります。二宮の変の時、孫権は孫和と孫覇を廃して、孫亮を立てる事を孫峻に相談したと言われます。

二宮の変に巻き込まれて皇太子から格下げされる孫和

 

孫峻は反孫和・親孫覇派閥で、孫権が死の間際に孫和の冤罪(えんざい)に気が付き赦免(しゃめん)しようとすると、孫峻は孫弘、孫魯班(そんろはん)と共に強硬に反対して撤回させています。孫権の崩御の時、政治を助けるよう遺詔(いしょう)を受け武衛将軍を加えられ宮廷の警備を取り仕切り、都郷侯に封じられました。

 

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諸葛恪の下で政治を取り仕切る

諸葛恪

 

孫峻は孫亮の後見人として諸葛恪を推し、自分の補佐としてくれるように強く推薦(すいせん)、これを受けて孫権は、諸葛恪、孫弘(そんこう)滕胤(とういん)を補佐役としました。

 

孫亮を支える諸葛恪と孫峻

 

しかし、三頭体制を不満とした孫弘が諸葛恪排除を企むと、孫峻は諸葛恪と共同して孫弘を殺害、諸葛恪、滕胤を立てる形で政治に影響力を発揮します。

 

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二宮の変

 

諸葛恪を殺し滕胤を立て、独裁色を強める

諸葛恪と孫峻

 

ところが、今度は諸葛恪が魏の合肥新城(がっぴしんじょう)を包囲するも落とせず大敗。求心力を低下させ、恐怖心から、次第に独裁色を強め、宮中を取り仕切る孫峻とも対立します。おまけに諸葛恪は、孫和の正妻の張氏と叔父と姪の関係である事から、孫和を優遇しようとし、反孫和派の孫峻の警戒心を煽る事になります。

 

孫峻の専横

 

結局、孫峻は皇帝、孫亮を味方につけて、宴会にかこつけて諸葛恪を宮殿に呼び出し、その場で皇帝の命令で罪を糾弾し諸葛恪を殺害、一族を皆殺しにするとともに、孫和にも言いがかりをつけ印綬を没収して新都に流し、そこで自殺させました。

 

滕胤は、諸葛恪と親しくまた縁戚でもあったため、自ら辞職を申し出ますが孫峻は慰留(いりゅう)。自分が独裁者と見られる事を避け、表面上は滕胤と孫峻の共同体制になりますが、孫峻は、丞相・大将軍・富春侯を兼任し事実上の独裁者となります。

 

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人気をなくしていく孫峻

北伐に失敗する孫峻

 

ところが、孫峻には呉を運営して繁栄に導く力はなく、自分が誅殺した諸葛恪同様に、孫亮を(ないがし)ろにして政治を私物化する方向に向かっていきました。

 

小心で猜疑心も強い孫峻は、自分に敵対する人々を処刑し、孫覇派の孫魯班とウヒョな関係になったり、孫魯班にそそのかされて毎晩宮女をウヒョするなど傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いをし、周囲から恨まれていきます。

 

そんろは 孫魯班

 

このために、五鳳(ごほう)元年(254年)秋には孫英に暗殺計画を立てられてました。計画は漏れて孫英は自殺しましたが、この後も王族による孫峻暗殺計画は頻繁に起こり、孫峻は追い詰められていきます。

 

外征に転ずるも失敗

カン丘倹(毌丘倹)

 

五鳳2年(255年)正月、魏の毌丘倹(かんきゅうけん)文欽(ぶんきん)寿春(じゅしゅん)で反乱を起こし魏の追討軍を迎撃すべく寿春を留守にします。

 

不人気を返上したい孫峻は魏の内乱に乗じて呂拠(りょきょ)・留賛を率いて寿春を襲撃しようとしますが、魏の司馬師に行動を読まれていて、副将の諸葛誕が寿春を平定したので撤退します。しかし、その途中、楽嘉(がくか)で敗北した文欽が数万の兵と投降したので、これを迎え入れました。

 

丁奉(ていほう)

 

孫峻は撤退途中に、呂拠(りょきょ)丁奉(ていほう)を派遣し高亭で魏の曹珍(そうちん)を破りますが、留賛(りゅうさん)が途中で病気となり帰還命令を出すものの諸葛誕配下の蔣班(しょうはん)の別動隊の攻撃を受け菰陂(こは)において殺害されます。

 

三国志のモブ 反乱

 

結局、魏の内乱により呉が得たものは、投降した性格最悪の文欽と数万の兵だけでしたが、孫峻は、この文欽ととても仲が良かったようです。

 

 

またまた暗殺計画

孫権の娘が大喧嘩 孫魯班、孫魯育

 

255年7月、蜀漢から使者が来ると、孫儀(そんぎ)張怡(ちょうい)林恂(りんじゅん)は宴席上で孫峻を誅殺しようと企みますが計画が漏れ、孫儀等は自殺しました。この暗殺計画には、孫魯班の妹で孫和派の孫魯育(そんろいく)も含まれ、数十人が連座して誅殺されました。どこまでもどこまでも、二宮の変は後を引いていたのです。

 

求心力の低下を止められない孫峻は、能力の有無に関係なく独裁者がやりがちな方法を選択します。外征により国内の不満を逸らそうと呉版の北伐を画策したのです。ところが、これが孫峻の命取りになりました。

 

広陵に城を築こうとして失敗

洛陽城

 

孫峻は広陵に城を築いて、北伐の拠点にしようと考えます。しかし、すでに呉は国力が疲弊し、とても城を造れる状況ではなく、群臣は皆、内心反対でしたが、孫峻を恐れて言い出せませんでした。

 

唯一、滕胤がこれを(いさ)めますが、孫峻はそれを黙殺して築城を開始、しかし城は完成せず、無駄な土木工事で民衆は飢餓に苦しみ、将兵の心も孫峻から離反します。

 

北伐準備中に精神疲労で急死

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

国内の憎悪にさらされても、孫峻は北伐路線を堅持します。五鳳(ごほう)3年(256年)8月マブダチ文欽の勧めで、よせばいいのに文欽、劉纂(りゅうさん)、呂拠、朱異(しゅい)唐咨(とうし)を先鋒に青州・徐州への北伐を画策しました。

 

孫峻は滕胤と共に石頭まで出張し、遠征軍の為に宴席を設け、従者を100人ほど引き連れて呂拠の本陣に入り視察します。しかし、呂拠が軍を乱れなく統率している姿を見ているうちに孫峻は不安になります。

 

(こいつ、このチャンスに俺を暗殺しようとするんじゃね?)

 

諸葛恪に夢で殴られて死ぬ孫峻

 

恐ろしくなった孫峻は、ちょっと心臓の具合が悪いと称しすぐに引き揚げました。孫峻はまもなく、諸葛恪に殴られる夢を見て、すっかり落ち着かなくなり体調を悪化させ、同年の間に急死します38歳でした。

 

孫峻年表

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

219年

孫堅の弟、孫静の曾孫として誕生

239年

孫権の晩年武衛都尉・侍中となる

弓馬の達人で決断力がある性格を孫権に好まれた

250年

孫権が末子孫亮を立てる事に同意

二宮の変の後始末で、孫和・孫覇を
後継者から外して処分した

252年

孫権崩御に際し諸葛恪を孫亮の後見に推す

諸葛恪暗殺を計画した孫弘を
諸葛恪に密告し誅殺する。

253年

諸葛恪を宮廷の宴席で誅殺

合肥新城の攻略に失敗し、
求心力を失った諸葛恪が独裁色を強めると
孫亮を抱き込み宮廷で殺害する

254年

独裁色を強め暗殺計画が続く

反対者を殺害、孫魯班と密通など
孫峻の政治も独裁色を強めて行き
王族による暗殺計画が相次ぐ

255年

求心力が低下しはじめる

毌丘倹・文欽の乱に乗じて寿春を奪おうとするが失敗。
同年、2度目の暗殺計画に遭遇するが未遂に終わる。
求心力低下を北伐で補おうとし、
群臣の反対を押し切り広陵に築城しようとし失敗。
民は飢え将兵は離反した。

256年

諸葛恪に殴られる夢を見て急死

再度北伐を計画し、
文欽・劉纂・呂拠・朱異・唐咨を先鋒に
青州・徐州侵攻を画策するが心臓の病を訴え引き揚げる。
・同年:諸葛恪に殴られる夢を見て以来、
精神のバランスを崩し病に臥せ急死。38歳

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

小心者感がスゴイ孫峻ですが、猜疑心が強いので、暗殺計画を何度立てられても回避できたメリットもあります。董卓のように無駄に気が強いと、敵を小者と侮り、暗殺に倒れるのがテンプレですが、孫峻は小心者ゆえに横死を免れたのです。

 

ただ、年中暗殺を恐れた結果、心臓に負担がかかり、ついには夢に過去に殺した諸葛恪を見て精神を病み衰弱死していますので、どの道、独裁は短期で終わる運命だったのでしょうね。

 

参考文献:正史三国志

 

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呉の武将

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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