孫峻は呉の王族に連なる人物であり、諸葛恪を誅殺して後、独裁体制を敷き従弟の孫綝と併せ西暦253年から259年まで6年間呉で権力を握りました。
しかし、その政治は誅殺した諸葛恪同様、それ以上の独裁政治になり、暗殺計画が続いて健康を損ない、ついには、死んだ諸葛恪に殴られるという不思議な夢を見て以来、衰弱が激しくなり死んでしまうのでした。
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晩年の孫権の信頼を得る
孫峻は字を子遠と言い、建安24年(西暦219年)に孫恭の息子として誕生します。孫峻は孫堅の弟孫静の曾孫にあたり王族でした。
曾祖父の孫静は、兄系統の孫一族とは距離を取っていましたが、孫の孫恭は積極的に呉の宮廷に出仕、重んじられて散騎侍郎となります。孫恭の息子が孫峻で若くして弓馬の達人で、性格も大胆で果断と孫権に好まれる性格であったので、孫権の晩年には武衛都尉になって侍中となります。二宮の変の時、孫権は孫和と孫覇を廃して、孫亮を立てる事を孫峻に相談したと言われます。
孫峻は反孫和・親孫覇派閥で、孫権が死の間際に孫和の冤罪に気が付き赦免しようとすると、孫峻は孫弘、孫魯班と共に強硬に反対して撤回させています。孫権の崩御の時、政治を助けるよう遺詔を受け武衛将軍を加えられ宮廷の警備を取り仕切り、都郷侯に封じられました。
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諸葛恪の下で政治を取り仕切る
孫峻は孫亮の後見人として諸葛恪を推し、自分の補佐としてくれるように強く推薦、これを受けて孫権は、諸葛恪、孫弘、滕胤を補佐役としました。
しかし、三頭体制を不満とした孫弘が諸葛恪排除を企むと、孫峻は諸葛恪と共同して孫弘を殺害、諸葛恪、滕胤を立てる形で政治に影響力を発揮します。
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諸葛恪を殺し滕胤を立て、独裁色を強める
ところが、今度は諸葛恪が魏の合肥新城を包囲するも落とせず大敗。求心力を低下させ、恐怖心から、次第に独裁色を強め、宮中を取り仕切る孫峻とも対立します。おまけに諸葛恪は、孫和の正妻の張氏と叔父と姪の関係である事から、孫和を優遇しようとし、反孫和派の孫峻の警戒心を煽る事になります。
結局、孫峻は皇帝、孫亮を味方につけて、宴会にかこつけて諸葛恪を宮殿に呼び出し、その場で皇帝の命令で罪を糾弾し諸葛恪を殺害、一族を皆殺しにするとともに、孫和にも言いがかりをつけ印綬を没収して新都に流し、そこで自殺させました。
滕胤は、諸葛恪と親しくまた縁戚でもあったため、自ら辞職を申し出ますが孫峻は慰留。自分が独裁者と見られる事を避け、表面上は滕胤と孫峻の共同体制になりますが、孫峻は、丞相・大将軍・富春侯を兼任し事実上の独裁者となります。
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人気をなくしていく孫峻
ところが、孫峻には呉を運営して繁栄に導く力はなく、自分が誅殺した諸葛恪同様に、孫亮を蔑ろにして政治を私物化する方向に向かっていきました。
小心で猜疑心も強い孫峻は、自分に敵対する人々を処刑し、孫覇派の孫魯班とウヒョな関係になったり、孫魯班にそそのかされて毎晩宮女をウヒョするなど傍若無人な振る舞いをし、周囲から恨まれていきます。
このために、五鳳元年(254年)秋には孫英に暗殺計画を立てられてました。計画は漏れて孫英は自殺しましたが、この後も王族による孫峻暗殺計画は頻繁に起こり、孫峻は追い詰められていきます。
外征に転ずるも失敗
五鳳2年(255年)正月、魏の毌丘倹・文欽が寿春で反乱を起こし魏の追討軍を迎撃すべく寿春を留守にします。
不人気を返上したい孫峻は魏の内乱に乗じて呂拠・留賛を率いて寿春を襲撃しようとしますが、魏の司馬師に行動を読まれていて、副将の諸葛誕が寿春を平定したので撤退します。しかし、その途中、楽嘉で敗北した文欽が数万の兵と投降したので、これを迎え入れました。
孫峻は撤退途中に、呂拠と丁奉を派遣し高亭で魏の曹珍を破りますが、留賛が途中で病気となり帰還命令を出すものの諸葛誕配下の蔣班の別動隊の攻撃を受け菰陂において殺害されます。
結局、魏の内乱により呉が得たものは、投降した性格最悪の文欽と数万の兵だけでしたが、孫峻は、この文欽ととても仲が良かったようです。
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