孫権の人柄ってどうだったの?晩年の暴走は老いが原因?

2021年2月2日


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孫権の人柄(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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酒による失敗談が多い孫権

酒癖が悪い孫権

 

孫権は酒に関する失敗も比較的多く取り上げられている人物です。

 

呉お正月企画、お酒にまつわる逸話07 孫権

 

(ごおう)になった時の宴会で、酔ったフリをしていた虞翻(ぐほん)を殺そうとして劉基(りゅうき)に諌められていますし、後年には「全員ぶっ倒れるまで飲ますぞー」とパワハラ全開の振る舞いを行い張昭に「紂王(ちゅうおう)じゃあるまいし止めときなさい」と怒られています。

 

後悔する孫権

 

心理学では普段の生活で抑制されている人ほど酔った時に羽目を外したり、支配的になりやすいというので、普段の孫権は我慢をしていたのかもしれません。

 

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張昭とのケンカ

孫権と張昭

 

若い頃は先生と仰いだ張昭とも後年にはケンカが増えていきました。最終的には孫権が謝るのですが、ある時は意固地になって引きこもった張昭の家に火を付け、無理やり外に出そうとするなど苛烈なこともしています。

 

孫権と張昭

 

もしかすると孫権のもともとの性格は、奔放でわがまま、暴力的だった。後を継いだ直後は、反乱が起きることを懸念して年長者たちを立てていただけで、実はストレスまみれだった可能性もあります。歳を取るにつれて負の面が目立つようになったのは孫権が変わったのではなく、本性が表に出るようになっただけではないでしょうか。

 

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晩年の孫権

倭と交流を結びたがっていた孫権

 

孫権は皇帝に即位してからの失策が目立ちます。例えば台湾と日本への遠征を決行して大半の兵を失う、遼東(りょうとう)公孫淵(こうそんえん)を臣従させようとして裏切られる、後継者争いを泥沼化させた上に多くの豪族を処断するなど国にとってマイナスな行動ばかりです。

 

前述のように感情のコントロールができなくなって本性が表に出た、あるいは単純に老いたという可能性もあるのですが、ここで注目したいのは皇帝の役割。

 

皇帝になることを決意する孫権

 

古代中国における皇帝は祭祀の仕事をしなければいけません。天子とも言うように祭祀を行うことで天との繋がりを示していたのです。さらに中国は多神教なので、祀る対象はかなり多かったのではないかと推測されます。

 

海賊時代の孫堅と孫策

 

実際に孫権は即位後に孫堅(そんけん)や孫策の(びょう)を建てて祖先の霊を祀っていますし、蜀では山々に囲まれているためか自然神を、魏は漢王朝から引き継いだ農神や蚕神(かいこがみ)などを祀っていました。

 

呂壱と孫権

 

また、祭祀は王都だけではなく郊祀(こうし)という郊外で行うものもありましたし、加えて孫権は度々親征も行っているので完全にキャパオーバー。その結果、正確な判断ができなくなり、呂壱(りょいつ)のような人物を重用してしまうなど失策が増えていったのかもしれません。

 

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三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

仮に孫権が自身の性格を押し殺しながら譜代の家臣たちを立てて統治をしていたのであれば、皇帝の器と言われるのも納得です。孫権は夷陵の戦いと濡須口(じゅしゅこう)の戦いを制した後に臣下から即位を勧められていますが、それを断って約6年後に即位しています。

 

呉の孫権

 

孫権は祭祀の仕事を避けたかったのかもしれません。しかし、臣下たちの望みを断れずに即位した結果、朝廷の仕事に忙殺され失策に繋がったと筆者は考えます。皇帝になったことを除けば大きなミスを犯していない名君だったと言えるでしょう。

 

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呉の武将

 

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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