周瑜や陸遜、関羽や張飛、張遼などそうそうたる面子が名を連ねている「中国史上六十四名将」。ここに後漢の人物で名を連ねている存在として、皇甫嵩がいます。
これほどの人物でありながら、どうして三国志において注目されなかったのか?
今回はそこを考えていきたいと思います。
皇甫嵩
皇甫嵩は名門に生まれ、黄巾の乱でその名を挙げました。実際にその活躍あってこその黄巾の乱とも言え、黄巾賊に止めを刺したのは皇甫嵩あってのことです。当時でも皇甫嵩は高く評価され、冀州を始めとした多大な褒賞を朝廷は与えています。
しかしその失脚もまた当時の朝廷によるもの。十常侍
に賄賂を渡さなかったことから失脚し、皇甫嵩は一時表舞台から姿を消すことになります。
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董卓と対立する皇甫嵩
後に再び表舞台に立つことになりましたが、ここで皇甫嵩は董卓に恨まれることになります。188年、梁州の王国(※人です)討伐に董卓と共に任じられるも、攻撃や追撃の際に真っ向から二人の意見はぶつかり、最終的に皇甫嵩は単独でこれに勝利。
朝廷は董卓に詔を下し、兵を皇甫嵩に任せるように言うもこれを無視。立派な命令違反ですがこれに激昂することなく、皇甫嵩は朝廷に冷静に報告。
怒った霊帝に董卓は叱責され、このことから董卓は皇甫嵩を恨むようになります。
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膝を折る
後に董卓は皇甫嵩を偽りの召還で殺害しようとするも、周囲の助命嘆願によって許されます。更に長安で董卓は皇甫嵩を屈服させるべく、皆に礼拝を取らせるのですが、この際に董卓は皇甫嵩に
「義真(皇甫嵩の字)、まだ服従いたさぬか」と言うと皇甫嵩は笑ってこれに会釈したことで、董卓はやっと逆恨みを止めわだかまりを解くことになるのでした。
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なぜ、皇甫嵩は注目されなかったのか?
さてその後は特に活躍もなく、病死する皇甫嵩ですが、更に後の時代になると名将の一人として名を連ねることになるのはご説明した通りです。
しかし三国志に親しんだ方々でも、皇甫嵩について良く知らない、もしくは三国志を扱ったメディアなどでも皇甫嵩についてそこまで触れられてはいません。
もちろん陳寿の三国志ではなく後漢書に記録されている人物だから……ということもあるでしょうが、どうしてここまで皇甫嵩について触れられないか、その理由をいくつか考えてみました。
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