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この記事の目次
計画に何顒が登場しない
合肥侯擁立事件が、独りよがりなクーデター計画だった証拠として、計画に何顒の名前が一切登場しない点が挙げられます。
何顒は清流派名士の陳蕃や李膺と親しく、党錮の禁では連座させられお尋ね者になります。やがて姓名を変えて汝南に逃亡しますが、至る所で豪傑に歓迎されて匿われ、特に袁紹の敬慕を受けて交友を深め奔走の友の1人になっています。
また、袁紹の計画に沿い危険を顧みずに洛陽に入り、捕らわれた仲間を助けるなど高い人望を得ていました。
その後、党錮の禁が解かれると司空府に招聘され、何進が政治を執ると、智謀の士として逢紀・荀攸らと共に腹心の役割を担っています。
王芬や許攸、周旌が本当にクーデターを成功させたいなら、何顒にコンタクトを取るべきであり、それにより袁紹や何進のような中央の名士とのパイプを連結すべきでした。
しかし、計画に何顒の名前が出てこない所を見ると、合肥侯擁立事件は最初から、何顒や袁紹のような中央のパイプ抜きで計画された、かなり杜撰なものであったと考えるのが妥当だと思えるのです。
そして、この杜撰な計画に首謀者として関与していた周旌は、残念な能力の持ち主だったと判断せざるを得ず、三国志で活躍できる余地がなかったというのも、納得できてしまいます。
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異常気象によりクーデター失敗
合肥侯擁立事件は、霊帝が故郷の河間の旧宅へ行幸するために洛陽を留守にする隙を狙い計画されていました。
その前段階として冀州刺史王芬は、黒山賊を討伐したいので朝廷の兵を借りたいと霊帝に願い出て許可を受けていました。
これで、霊帝が洛陽を出た後で軍勢を洛陽に進軍させ、合肥侯を新しい皇帝に据えて霊帝を廃位し勅命で宦官を皆殺しにする企みがスタートします。
しかし、霊帝が巡幸に出た直後、赤い光が天を東西に二分する異常気象が発生。これは不吉な兆候とされ行幸は取りやめとなり、王芬に貸し与えた兵力も戻すように命令が下りました。
さらに、直後に王芬に洛陽に上京するように命令が下ったので、クーデターがバレたと早合点した王芬は自殺してしまったのです。
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杜撰な計画唯一のメリット
その後、陳逸や許攸、襄楷、周旌が逮捕されたという記述は無く、計画は露見しなかったか露見したものの、王芬が証拠を隠滅していたので、追及が進まなかったとも考えられます。
逆に考えると、内々だけで極秘裏に進めた合肥侯擁立事件は、隠滅すべき証拠も限られ、大事にならない間にひっそりと闇に葬られたとも言えますね。
沛国の豪族周旌が、クーデター未遂後どうなったのか?知る由もありませんが、この程度のおっちょこちょいな計画に乗ってしまうあたり、群雄割拠の三国志の時代では名を現す事もなく、豪族のその他大勢で消えてしまったのではないかと思います。
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三国志ライターkawausoの独り言
沛国豪族の周旌について考えてみました。
この計画に乗ったか乗らなかったかは人物のリトマス試験紙になったようで、曹操同様に失敗を見抜いて乗らなかった華歆は、その後魏の大尉まで昇進し、陶丘洪は計画に乗ろうとして華歆に諫められ断念し、地味な人物として終わっています。
あと、王芬が担ぐ予定だった合肥侯ですが、現在に至るまで名前は不明です。しかし、曹操が擁立の資格に疑問を呈しているので、あるいは劉氏でも傍流も傍流だったのかも知れませんね。
参考文献:正史三国志、九州春秋、魏略
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