三国志では様々な登場人物がおりその性格も十人十色です。なかには非道の限りを尽くし現代にいれば関わりたくないような性格の持ち主もいます。
逆にこんな人がいれば是非教えを乞いたいと思えるような人物も数多くいます。
その中でも今回は魏の初期から曹操を支え天下の一大勢力となるまでの礎を築いた荀彧が一体どのような性格の人物であるのかということを紹介していきます。
時にはスパルタ?強気の姿勢を崩さなかった官渡の戦い
荀彧は何事にも情報を基に冷静に判断し、またその情報を得る人脈も優れていました。さらにその情報が正しいものであるか否かを判断する観察眼、考察力にも秀でておりその場での最適解を見出すことができる人物です。
そのため一見無理をしないようなタイプに見えますがここぞというときにはいかに劣勢であろうとも突っ張るという主君の曹操に対してスパルタな一面も見せています。
その一面が見えたのが官渡の戦いです。
官渡の戦いにおいて曹操軍は序盤こそ櫓の上から放たれる飛距離の長い弓に苦しみますが投石車を導入し戦況を徐々に押し返します。
その後一進一退の攻防となりますが兵糧において不利な状況である曹操はこのままでは士気が低下し劣勢となることを恐れ撤退を検討します。そんな中許都にいる荀彧に向けの今後について相談する手紙を送ります。
その手紙に対して荀彧は
「この戦いは天下分け目の一戦でありあなたは献帝の命により戦を行っている。袁紹の軍は一見強大に見えますが兵士の質でいえばわが軍に優位があり袁紹とあなたと比べても負けているところはなく官渡から撤退する必要はありません。
逆にここで撤退すれば袁紹に息つく暇を与えることになり我々はより不利な状況となります」といった内容の手紙を送り撤退することを許しませんでした。
結果曹操は戦いを継続し不利と言われた状況を見事覆し勝利を治めます。荀彧は撤退という甘い道をふさぎ曹操にとっては茨の道を歩ませますが結果として大勝利に導き曹操は天下の一大勢力となりました。
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自身の出世や俸禄には興味なし質素な生活を好む
曹操の配下で様々な功を立てた荀彧はさぞ優雅な生活を送っていたと想像されますがそんなことはありませんでした。荀彧は曹操に仕えて以降曹操の勢力が強力になるにつれて与えられる俸禄も多くなっていきました。しかし荀彧はそれ以前の質素な生活を変えることはありませんでした。
また曹操が荀彧を三公の位にしようとした際にも荀彧は断固として拒否しあまりの強い姿勢に曹操も諦めてしまいます。その代わりに曹操は自身の娘である安陽公主を荀彧の息子である荀惲に嫁がせ両者の関係はより強固なものとなりました。しかしそれでも荀彧は以前の質素な生活を変えようとはしませんでした。
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実は頑固者!?謎多き漢室への忠義
荀彧は漢の忠臣であるという評価は最終的に曹操の王位即位については反対し最後までその信念を貫き通したということが大きなポイントであると思います。
この一点を見ると荀彧はたとえ主君曹操のことであっても自身の信念は曲げない頑固な性格であるとも言えます。しかし本当に荀彧がそこまで漢室のことを思っていたかは多くの疑問があります。
荀彧は長安にて董卓軍の内戦が発生し都を追い出された献帝を救出する際に曹操に対して
「献帝が災いとなるようなことがあれば項羽に習い楚の義帝が如く扱えばよい」とアドバイスしています。
※楚の義帝とは秦末の動乱期に即位した実権のない帝であり後に項羽に派遣された部下によって殺害される。
つまり荀彧は献帝が不要となった際には殺してしまえばよいと曹操に話しておりこの話を聞くと漢室に対して頑固な忠誠心を持っているとは思えません。
漢室と曹操どちらに忠を尽くしたかという点において荀彧は謎が多い人物ですが、少なくとも他人に合わせるために自身の信念を曲げるようなことはしなかったのではないでしょうか。
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荀彧の性格のまとめ
荀彧は王佐の才という評価に恥じないような智謀を持ちその情報収集能力およびその情報を冷静に分析し判断する能力に長けていました。またその生活は質素であり権力に溺れるようなこともありませんでした。
三国志ライターボス吉の独り言
ただここぞというときには強い姿勢で物事に挑み一見苦難とも思える道を歩むようなこともします。ただそれは荀彧なりに勝機があると判断したからこそでありその判断の裏にはしっかりとした根拠があります。
最後は曹操と対立したまま亡くなったとなっていますがこれも荀彧なりの考えがあってのことであり自身のエゴだけではないのだろうと推測できます。
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