謎多き荀彧の死!本当に漢の忠臣として死んでいったのか




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郭嘉を曹操に推薦する荀彧

 

曹操(そうそう)の台頭初期から支え続けた荀彧(じゅんいく)は多くの人材を曹操に推挙、また戦でもその智謀で勝利をもたらしてきました。

 

反対する荀彧

 

しかし最後は曹操が公位に就くことに難色を示し二人の関係は悪化、そのまま改善することなく荀彧は亡くなってしまいます。

 

荀彧

 

今回は荀彧が本当に(かん)の忠臣としての志を貫き通して亡くなったのかという点にフォーカスしてみます。




献帝の救出

献帝を保護する曹操

 

曹操は献帝(けんてい)を手中に置き権力を強めていきますがそのきっかけとなった出来事があります。

 

李カク(李傕)、郭汜、王允

 

董卓(とうたく)亡きあと王允(おういん)がその後釜となろうとしていましたが董卓死後からわずか2か月で董卓の部下であった李傕(りかく)郭汜(かくし)により一族諸共殺害されました。その後この二人による連立政権となりますが次第に関係が悪化、全面戦争により長安(ちょうあん)は火の海となります。

 

張済

 

その後互いに消耗し同じく元董卓の部下であった張済(ちょうさい)の仲裁もあり李傕・郭汜による戦いは収まりますが、その際の条件が揉め事の原因である献帝を洛陽(らくよう)に帰すというものでした。

 

李カク(李傕)と郭汜、郭、張済

 

それに伴い献帝は洛陽へと帰還するのですが、その際に献帝の重要性に気が付いた張済が李傕・郭汜と共に献帝を捕らえるため出陣します。

 

張済、献帝

 

絶対絶命となった献帝は有力者に救出を求めますが袁紹(えんしょう)をはじめ諸侯(しょこう)は動きません。そんな中曹操だけが救出に向かい献帝を手中に置きます。この救出を行うにあたり曹操は荀彧に救出を行うかべきか否か相談します。

 

荀彧(はじめての三国志)

 

その際に荀彧は「この群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代、漢の権威は衰えども、その影響力は大きくその皇帝を担ぐことには大きな意味があり、現状を打開するには漢の朝廷を取り込むことが重要。朝廷を取り込むことができれば、群雄たちも下手に手出しをすることができなくなる」とし救出することを推進しています。

 

苛ついている曹操

 

この時曹操は袁紹・袁術(えんじゅつ)劉表(りゅうひょう)呂布(りょふ)などに四方を囲まれており窮地に立たされていました。

 

献帝を保護する曹操

 

こういった難しい状況を打開するための手段として献帝を取り込む案に曹操も同意し献帝を救出しました。

 

曹操と荀彧

 

この曹操と献帝両者の窮地を脱する案を提案した荀彧は曹操の優れた参謀でもあり漢の忠臣でもある振舞です。

 

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献帝救出時の荀彧の言葉

荀彧

 

荀彧は曹操に献帝の救出を進言、曹操はその進言を受け入れ献帝を救出し曹操と献帝は、その時置かれていた別々の窮地を脱することができました。この際に荀彧は曹操に対して献帝を取り込む必要性を説いていますが、それと同時に「献帝が災いとなるようなことがあれば項羽(こうう)に習い()義帝(ぎてい)が如く扱えばよい」とアドバイスしています。

 

項羽

 

楚の義帝とは秦末(しんまつ)の動乱期に即位した実権のない帝であり、後に項羽に派遣された部下によって殺害されてしまいます。

 

荀彧

 

つまり荀彧は献帝が不要となった際には、殺してしまえばよいと曹操に話しているのです。この言葉だけ聞くと漢の忠臣とは程遠い人物であると印象付けされます。

 

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魏公即位の背景と荀彧の反対理由

亡くなる荀彧

 

荀彧が漢の忠臣として評価されているのは曹操が魏公(ぎこう)となることに反対し、その意見を貫いたまま亡くなったことが大きな要因となっています。

 

曹操

 

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)から3年後、曹操配下の文官達は曹操を魏公にしようと働きかけ曹操も乗り気となっていました。これは単に曹操がその欲望のまま公位に就こうとしたのではなく、赤壁での敗戦が影響しているのではと考えられます。

 

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

曹操は赤壁の戦い前にこの戦にて勝利した後は、配下の文官・武官にそれぞれ俸禄を与え穏やかに暮らすとし士気を高めていました。しかし結果は大敗であり俸禄を与えることもできません。

 

赤壁の戦い 曹操

 

こういった背景から曹操としてもこのまま漢のいち忠臣では俸禄を与えることもできずそれが不満となり士気の低下、ひいては反乱の原因となってしまうことを危惧しての決断であると推測されます。

 

荀彧と曹操

 

そういった背景についても荀彧は理解していたと思われますが、それでも反対をしています。これは許昌(きょしょう)内部に漢に忠誠を誓うものが残っていることを荀彧が知っており、時期尚早であると判断したからであると考えます。

 

三国志のモブ 反乱

 

荀彧の死から6年後許昌にて反乱が発生します。これを起こしたのは耿紀(こうき)金禕(きんい)吉本(きつほん)らとされており、この荀彧は当時この耿紀のとなりに住んでおり、曹操への不平・不満を耳にする機会が多かったのではないでしょうか。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

そのため曹操の魏公即位時にはこれまで潜んでいた漢を思う人々が蜂起し、多かれ少なかれ反乱が発生すると予感し反対を表明したのではないかと考えます。

 

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荀彧の死

空箱を受け取る荀彧

 

魏公即位反対から荀彧は曹操から冷遇されるようになったとされており後漢書(ごかんしょ)魏氏春秋(ぎししゅんしゅう)では曹操からの贈り物として受け取った品物の箱が空箱であり、それを曹操の意とした荀彧は服毒自殺してしまったとあります。

 

曹操と郭嘉

 

この話がどこまで本当かはわかりませんが程昱(ていいく)荀攸(じゅんゆう)郭嘉(かくか)など曹操に仕えた多くの人物が功臣として曹操廟に合祀(ごうし)され祭られるなか、功績において引けを取らない荀彧が祭られることはなかったことから、何らかの原因で曹操から冷遇されており、その原因として一番合点がいくのが魏公即位反対であるため後世に伝わったのではないでしょうか。

 

まとめ

鬱になる荀彧

 

荀彧の死や漢の忠臣であるかどうかについては、謎が多く推測も多くなってしまいますが、曹操が皇帝の座に就くことを目論んでいたことは荀彧も気が付いていたと思います。

 

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三国志ライターボス吉の独り言

ボス吉(ライター)

 

それでも荀彧が曹操を支え続けたのはすでに漢室に天下をコントロールするだけの力はなく、このままでは戦乱の世は収まらないということを感じていたからこそ、実質的に曹操に天下をコントロールしてもらいながら徐々に権限を移行、天下に混乱なく次世代へバトンを渡していきたかったからではないでしょうか。

 

曹操に仕えることを検討する荀彧

 

そのため漢の忠臣であるというよりは天下に混乱なく太平の世にしていきたいという信念を持っていた人物であると言えるでしょう。

 

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