一将功なりて万骨枯るなどと言うように、指揮官と兵士では待遇に天地の差があります。多くの兵士の犠牲の上に昇進していく将軍というのは、洋の東西を問わない戦争の一面の真実です。
しかし、ほかならぬ三国志の時代、指揮官と部下という身分差を越え、厚い友情で結ばれた男達がいました。それが、第2次合肥戦争で10万孫権軍に挑んだ、張遼と彼の決死隊800人だったのです。
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張遼が決死隊八百名を選抜
建安二十年(西暦215年)孫権が突如として十万を超える兵力で合肥を包囲します。合肥城を守る張遼、李典、楽進の3将軍が曹操から託された函を開くと、中には手紙が入っていて
”孫権が到れば張遼と李典は出撃し楽進は軍を守って戦うなかれ”と書いてありました。
あまりの兵力差に諸将が出撃を躊躇い困惑していると、張遼は毅然として
「曹公は遠征して遠くにあり合肥城の援軍には間に合わない。それ故、我々に賊の包囲が終わる前に出撃して一撃を加え兵士の士気を高めその後は、堅く守って城を守り切れと言っているのだ。諸君、ぐずぐずしている暇はない!すぐに出撃準備せよ」
李典も張遼の考えに賛同したので、張遼は夜中の間に決死隊八百人を選抜すると、牛を殺して肉を将兵に振る舞い明日は大いに戦おうと檄を飛ばしました。ここで選抜された八百名こそが張遼と厚い友情で結ばれた兵士たちになります。
獅子奮迅の活躍
夜が明けると張遼は武装して戟を装備して800人の先陣を切って呉の陣を陥落させ、数十人を殺し、二将を斬り捨てると「我は張文遠なり!賊将はいずこ!」と叫びながら塁を突き破り、とうとう孫権の牙旗の下まで到達しました。
孫権は大いに驚き、馬に乗って小高い丘に駆け上がり長戟で自分の身を守り、幕僚たちは為す術を知らず右往左往するばかりです。張遼は丘の上を睨み「賊将!下りてきて戦え」と呼ばわりますが孫権は応じず、張遼の兵力が少数だと知ると、兵士を集めて張遼を数重にも包囲します。しかし張遼は少しも慌てず、包囲陣を駆け回り、前列の兵を厳しく突いて包囲を突き崩し、数十人の親衛隊と脱出しました。
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八百人を救う為戦場に戻る張遼
しかし、呉軍の包囲の中に張遼の選抜した800名が脱出できずに残されました。彼らは恐怖でパニックになり「将軍!我らを棄てるのですか!」と泣き叫びます。
すると張遼、一度突破した敵陣に再び舞い戻ると、包囲を逆に突き破り800名を救助。彼らを残らず引き連れ、三度呉軍の包囲を突き破って脱出に成功しました。
張遼のあまりの強さに呉軍は意気消沈、敢えて張遼と800名の決死隊に攻撃を仕掛けようとするものもありません。こうして張遼は明け方から昼間に至るまで奮戦し、呉軍は急速に士気が低下、それを見た張遼は決死隊を率い合肥城に帰還します。
孫権は十数日、合肥を包囲しますが、疫病が流行するなど士気がガタガタになり撤退。途中、またも張遼に追い駆けられ命からがら逃れるなど苦手意識を持つに到りました。
こうして、張遼と鉄の絆で結ばれた決死隊800名は曹丕の時代になると再度表彰され、虎賁として宮廷に引き抜かれ栄達する事になります。
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