司馬倫が単なる簒奪者として終わり、時代には次の八王が現れます。
その名は司馬冏、賈一族を政治の場から取り除いた一人ですが、果たしてその行動にはどんな感情が込められていたのか。今回は八王の乱の続き、逝かれたメンバーの一人、司馬冏のご紹介です。司馬冏は何よりその血筋が肝な人物なので、そこに注目しつつご紹介していきますね。
※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきます。
この記事の目次
斉王・司馬冏
司馬冏は司馬炎の弟・司馬攸と、賈充の娘・賈褒の子として産まれました。幼い頃は父親に良く似て聡明で、心優しい人物として評判の子供だったといいます。
司馬攸は司馬師の継子とされましたが、司馬昭は後継者に司馬炎ではなく司馬攸をと考えていた人物です。
このため司馬攸は兄の司馬炎から疎まれており、司馬炎の後継者を司馬衷ではなく司馬攸にした方が……という動きが出てきてからは、余計にその態度が露骨になってきました。
司馬攸自身も中書監・荀勗らとの折り合いが悪く、讒言されたことによって中央から遠ざけられます。
そして任地に向かう際に、病のまま亡くなりました。これに怒ったのが司馬冏です。
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父の死に義憤する司馬冏
司馬攸の葬式にやってきた司馬炎の前に出てきた司馬冏、憤まんやる方ないと言ったように叫びました。
「父は本当に病気だったのに、典医たちは仮病と言って無理に父を出立させました!偽りの申告をした典医たちを処罰して下さい!」
中央から遠ざけられた時、司馬攸は病気で臥せっていました。
これを仮病ではないかと疑った司馬炎は典医を向かわせましたが、この典医たちは荀勗の息のかかった者たちだったので「司馬攸は仮病」と虚偽の申告をしたのです。
それを真に受けて弟に無理に出立させたのは司馬炎ですが、甥の言葉と態度に感じるものがあったのか、典医たちは処刑、そして斉王の地位はそのまま司馬冏に継がせました。
この司馬冏が司馬炎に臆さず申し上げた行動を聞いた人々は、その行動を称賛したと言います。
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賈一族、誅殺
司馬炎崩御、司馬衷が後継者になるとクーデターが何度も起こり、
司馬亮、司馬イらも処刑され、権力を握ったのは皇后・賈南風と賈一族です。
この際に賈一族の者として司馬冏も出世するのですが、そこにやってきたのは司馬倫。
倫「賈一族を政治の場から取り除こうぜ!」
ケイ「OK(即答)」
というやり取りがあったかは分かりませんが、司馬冏は賈一族でもありながらこの計画に乗り、クーデターの際には賈南風を取り押さえるなどの手柄を立てました。こうして賈南風、賈一族はほぼ断絶となったのです。
しかし司馬冏に与えられた褒賞は游撃将軍としての座のみ。司馬倫に不満を募らせ始めた司馬冏は中央から遠ざけられます。
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三王決起
しかしこの遠ざけられた際に司馬冏に与えられたのは平東将軍。これで司馬冏は許都に自分の兵士たちを駐屯させられる立場となり、軍事的な立場は強くなります。
そして301年、司馬倫による皇位簒奪が起こります。
司馬冏はこの際に既に司馬倫を見限っており、成都王司馬穎・河間王司馬顒らに司馬倫討伐の話を持ち掛け、諸侯にも「趙王の判断を誤らせた孫秀を討伐しよう。従わない者は三族誅殺する」というほぼ脅迫文みたいな手紙を出します。
ここに三王と脅迫に怯えた諸侯が立ち上がり、司馬倫討伐の兵は総勢二十万という数にもなりました。
最終的に敗北を悟った宮中でクーデターが起こり、司馬倫は捕縛。後に司馬倫は殺されます。
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