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司馬冏とはどんな人?晋の被害者?八王の乱の一人

2021年5月6日


 

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読み書きのできない司馬倫

 

司馬倫(しばりん)が単なる簒奪者(さんだつしゃ)として終わり、時代には次の(はちおう)が現れます。

 

司馬冏

 

その名は司馬冏(しばけい)()一族を政治の場から取り除いた一人ですが、果たしてその行動にはどんな感情が込められていたのか。今回は八王の乱の続き、逝かれたメンバーの一人、司馬冏のご紹介です。司馬冏は何よりその血筋が肝な人物なので、そこに注目しつつご紹介していきますね。

 

※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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斉王・司馬冏

司馬攸

 

司馬冏は司馬炎(しばえん)の弟・司馬攸(しばゆう)と、賈充(かじゅう)の娘・賈褒(かほう)の子として産まれました。幼い頃は父親に良く似て聡明で、心優しい人物として評判の子供だったといいます。

 

司馬昭は後継者に司馬炎ではなく司馬攸を考える

 

司馬攸は司馬師(しばし)の継子とされましたが、司馬昭(しばしょう)は後継者に司馬炎ではなく司馬攸をと考えていた人物です。

 

兄の司馬炎から疎まれる司馬攸

 

このため司馬攸は兄の司馬炎から疎まれており、司馬炎の後継者を司馬衷(しばちゅう)ではなく司馬攸にした方が……という動きが出てきてからは、余計にその態度が露骨になってきました。

荀勗(じゅんきょく)

 

司馬攸自身も中書監(ちゅうしょかん)荀勗(じゅんきょく)らとの折り合いが悪く、讒言されたことによって中央から遠ざけられます。

 

司馬攸は宿所で血を吐いて38歳で亡くなる

 

そして任地に向かう際に、病のまま亡くなりました。これに怒ったのが司馬冏です。

 

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父の死に義憤する司馬冏

父の死に義憤する司馬冏 司馬冏 、司馬炎

 

司馬攸の葬式にやってきた司馬炎の前に出てきた司馬冏、憤まんやる方ないと言ったように叫びました。

 

司馬炎の要請で戦地に向かう重病の司馬攸

 

「父は本当に病気だったのに、典医たちは仮病と言って無理に父を出立させました!偽りの申告をした典医たちを処罰して下さい!」

 

病が悪化し苦しんでいても日常的に振舞う司馬攸

 

中央から遠ざけられた時、司馬攸は病気で臥せっていました。

 

司馬炎が司馬攸の病が仮病だと疑い医者を派遣

 

これを仮病ではないかと疑った司馬炎は典医を向かわせましたが、この典医たちは荀勗の息のかかった者たちだったので「司馬攸は仮病」と虚偽の申告をしたのです。

 

派遣された医者は司馬攸は仮病だと司馬炎に虚偽の申告

 

それを真に受けて弟に無理に出立させたのは司馬炎ですが、甥の言葉と態度に感じるものがあったのか、典医たちは処刑、そして斉王の地位はそのまま司馬冏に継がせました。

 

司馬炎に臆さず意見を言う司馬冏は斉王となる

 

この司馬冏が司馬炎に臆さず申し上げた行動を聞いた人々は、その行動を称賛したと言います。

 

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賈一族、誅殺

病で亡くなる司馬炎

 

司馬炎崩御、司馬衷が後継者になるとクーデターが何度も起こり、

 

粛清を繰り返す賈南風

 

司馬亮(しばりょう)、司馬イらも処刑され、権力を握ったのは皇后・賈南風(かなんぷう)と賈一族です。

 

司馬倫

 

この際に賈一族の者として司馬冏も出世するのですが、そこにやってきたのは司馬倫。

 

倫「賈一族を政治の場から取り除こうぜ!」

ケイ「OK(即答)」

 

毒酒を飲み自害させられた賈南風

 

というやり取りがあったかは分かりませんが、司馬冏は賈一族でもありながらこの計画に乗り、クーデターの際には賈南風を取り押さえるなどの手柄を立てました。こうして賈南風、賈一族はほぼ断絶となったのです。

 

司馬倫討伐を目論む司馬冏

 

しかし司馬冏に与えられた褒賞は游撃将軍としての座のみ。司馬倫に不満を募らせ始めた司馬冏は中央から遠ざけられます。

 

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三王決起

進軍する兵士a(モブ用)

 

しかしこの遠ざけられた際に司馬冏に与えられたのは平東(へいとう)将軍。これで司馬冏は許都(きょと)に自分の兵士たちを駐屯させられる立場となり、軍事的な立場は強くなります。

 

人気獲得のために爵位をばらまく司馬倫

 

そして301年、司馬倫による皇位簒奪(さんだつ
)
が起こります。

 

司馬顒と組み、司馬冏討伐に乗り出す司馬穎

 

司馬冏はこの際に既に司馬倫を見限っており、成都王司馬穎(しばえい)・河間王司馬顒(しば ぎょう)らに司馬倫討伐の話を持ち掛け、諸侯にも「趙王(ちょうおう)の判断を誤らせた孫秀(そんしゅう)を討伐しよう。従わない者は三族誅殺する」というほぼ脅迫文みたいな手紙を出します。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

ここに三王と脅迫に怯えた諸侯が立ち上がり、司馬倫討伐の兵は総勢二十万という数にもなりました。

 

クーデター成功後に今度は司馬倫討伐に参加する司馬穎

 

最終的に敗北を悟った宮中でクーデターが起こり、司馬倫は捕縛。後に司馬倫は殺されます。

 

【次のページに続きます】

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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