司馬懿は名門、司馬家の次男。上京した際に洛陽にて、曹操に兄弟は出仕を求められます。
しかし多くの逸話でここで出仕を嫌がって(そして引きこもった)司馬懿が断り、曹操がブチ切れちゃうというストーリーが出てきますね。今回はこの逸話について、ちょっと考察してみようというのがテーマです。
曹操「働いて」
さて時は董卓が洛陽にてやりたい放題をやっていた頃のこと。
司馬防はこれを危険視、長男であった司馬朗に家族を連れて郷里に帰るように通達します。
この際に捕まってしまった司馬朗は董卓から「見捨てないで!」と懇願されるも、同道した態度で乗り切り、家族と共に何とか逃げおおせました。
このため中央から離れていた司馬兄弟ですが、それを目に止めたのが人材ハンター・曹操です。
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司馬懿「だが断る」
201年、兄弟は曹操に出仕するように求められます。
兄の司馬朗はこれに応じましたが、司馬懿は病気を理由に辞退。晋書ではこの辞退について「司馬懿は漢の忠臣だから逆賊曹操に屈しなかったのだ!(意訳)」とされていますが、この当時に高官から招集されても断るのが流行ともされていたとされ、司馬懿がどう考えていたのかは分かりません。
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司馬懿が辞退した謎
さて司馬懿がどうして曹操の誘いを断ったのかは分かりません。が、それ以前にこの逸話に関して、色々な「謎」があるのです。
実はこの誘いに関して、魏略、もしくは曹洪伝を見ていくと、目に付く話が出てきます。
それは、司馬懿を招いたのは曹操ではなく、曹洪だった……という話なのです!
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断ったのは、いったいだれ?
因みに魏略を見ると「曹洪は司馬懿を招いたけど司馬懿は行きたくないから仮病を使った。曹操にそれを告げ口されて諦めて出仕した」となっています。
やや経緯は違えど、そもそも司馬懿を招いたのは曹操ではなく曹洪ですね。じゃあ曹洪伝を見てみると細部が書かれて……と見てみると、こちらで曹洪の誘いを断っているのは司馬懿ではなく阮ウという人物になっています。
これでは招いたのは誰なのか、断ったのは誰なのか、そもそも逸話自体が本当にあったのか……そんなことを考えてしまいますね。
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