関羽と糜芳、という二つの名前を並べると、三国志ファンは何やらざわざわしたものを感じるのではないでしょうか。
関羽と言えば三国志の名将中の名将であり、死後は神にまで至った人物。対してその関羽を裏切り、死に繋がる原因を作った存在とも言える糜芳。今回はそんな彼らの関係を見ていきたいと思います。
関羽と糜方の出会いは
関羽と糜芳の出会いそのものがどういったものかは詳しく記録されていません。
ただ糜芳は兄の麋竺と共に、陶謙の死後に劉備に仕えることになりました。そして20年以上もの劉備の放浪生活について行くこととなります。つまり、劉備の義兄弟である関羽とも長い付き合いと言えるでしょう。
また劉備が曹操の元に身を寄せた際に、糜芳も曹操の元にいたのですが、この時に曹操から「見どころのある人物だ。ホウ城相に任命する。今後も我が元に留まって欲しい」と勧誘されています。
しかし糜芳はそれでも劉備からは離反することなく、その後も兄と共に劉備に付き従います。
糜芳、南群太守に
その後、劉備はももに贅肉が付いてしまったりするなど色々な出来事を経て、荊州、そして蜀を手に入れました。そして関羽は荊州都督に任じられますが、同時に糜芳も呉との最前線ともいえる南群の太守に任命されます。
前述したように荊州、南群は対呉に置ける、そして蜀においても大事な拠点。もちろん兄弟の麋竺、糜夫人の関係もあるでしょうが、糜芳もまた劉備に信頼されていたからこその任命だと思われます。
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関羽との軋轢
ここまでで糜芳と関羽の関係は分かりませんが、ある事件が起こります。関羽は樊城攻めを開始しますが、この際に糜芳、士仁に援軍を求めました。
しかしここは呉との最前線、そうそう簡単に兵力は送れなかったのか、二人は援軍ではなく補給物資を送ることにしました。が、ここで糜芳は出火事件を起こし、物資を燃やしてしまいます。
これは関羽の逆鱗に触れ「凱旋した際にはこの事を我が君に報告し、容赦なく処罰をする!」と言われてしまいます。
この言葉は糜芳を追い詰め、そこに抜け目なく孫権から「良かったらうちおいでよ!(超意訳)」されたこともあり、糜芳は最終的に呉に行ってしまうことになります。
裏切りか?内通か?
因みに糜芳の裏切りに関してですが、関羽伝では「孫権の兵を迎え入れた」とありますが、呂蒙伝では「城を守って籠城していたけれど士仁が先に降伏したことで、呂蒙と士仁がいっしょにいる姿を見ると降伏した」となっており、内通していたのか、それとも士仁が降伏したことで諦めて降伏したのかは分かってはいません。
ただ蜀の記録では糜芳は内通していたという印象を受け、呉の記録では籠城するつもりだったのが同僚の降伏を見て諦めた、という印象を感じるのが面白い所です。
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