三国志末期に出てくる武将は何人もいますが、その中でも鍾会は異彩を放っている人物だと思います。
野心家である、だけど姜維に騙された、ついでにいうと「劉備くらいにはなれるだろうな!」とか言っちゃった人……
最後でやらかしたためにその最後にばかり注目され、失敗したことばかり取り上げられてしまいますが、鍾会は面白い人物です。
今回は稚拙ながらそんな鍾会を紹介(笑顔ポイント)しましょう。
この記事の目次
鍾会の最期が・・・
さて鍾会、彼はあの魏の重臣、鍾ヨウの子です。
父親が74歳という高齢になってから生まれた子ですが、幼少期は賢く、また母親が教育熱心であったためにかなり学問に通じており、論文も多数執筆していました。
しかしこういった功績よりも、多くの人が目に付くのがその最期。姜維と組んで反乱を起こして戦死、と言う所でしょう。
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ただの反乱ではない
しかしここで気を付けて見て欲しい所があります。当時としてはもっと後の八王の乱でのクーデター祭りにも負けず劣らず、クーデター、寝返り、反乱というのは決して少なくありませんでした。
鍾会の目指す所は「成功すれば司馬昭、失敗しても劉備」。そう、クーデターでも、寝返りでもなく、彼が起こしたのは魏から、というよりも魏を掌握している司馬昭からの独立なのです。
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劉備にはなれなかった
264年、鍾会は部下たちを拘束するも、結局はこの捕らえられた部下たちが蜂起してしまい、姜維と共に戦死します。
このため鍾会の歴史的な立ち位置は「反乱を起こそうとしたけれど反乱を起こす前に失敗して戦死した」というような位置になってしまいました。
結局のところは付いて来てくれる人物がおらず、反乱もやや対応が杜撰ということもあり、どの辺が劉備くらいになれると思ったのか……この辺は楽しい考察ポイントですね。
批判轟轟
そんな鍾会、国内での評判がとてもよろしくない人物でした。友人には「器量と野心が釣り合わない」と言われ、
王元姫には「理にばかり目を向ける人ですから、大役をさせないように」と言われ
辛憲英は甥に「いつまでも人に仕えているような人ではない」と言ったとか。
とにかく残された記録ではやたら野心家であった、ということが良く分かります。
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