「三国志」後期で活躍する姜維は諸葛亮亡きあとの蜀軍の責任者として何度も魏に対する北伐を決行しました。しかし、結局はそのことが蜀滅亡の原因となってしまいます。
失敗した、と思われがちな姜維の北伐ですが、何か戦果を挙げることはできたのでしょうか?
今回の記事では北伐での姜維の戦いぶりを探ってみようと思います。
この記事の目次
姜維が北伐を開始するまでの歩み
姜維は天水地方に生まれ、元々は魏の武将として活動していました。しかし、諸葛亮の北伐にともない、蜀に降伏。その才能を高く評価した諸葛亮によって蜀軍において出世していくことになりました。
諸葛亮の死後は蜀軍の中枢を担うようになり、異民族の慰撫等で活躍します。姜維は西方の地理に通じていることや、自らの才能や武勇を恃みとし、諸葛亮の悲願を達成するために大規模な北伐を計画していました。
しかし、当時の軍権を握る「費禕」は「内政と人材育成が先だ」と反対します。姜維が本格的に北伐を開始したのは費?が不慮の死を遂げ、軍権を掌握してからでした。
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初期の北伐では大きな戦果をあげる
費禕が亡くなったのは西暦253年の春ですが、なんとその夏から姜維は北伐を敢行します。数万の兵を率いて出陣し、南安(現在の甘粛省定西市)を囲みます。
しかし、魏の武将「陳泰」が援軍として迫り、姜維は兵糧が尽きた為に撤退します。
翌年(254年)に魏の武将「李簡」の降伏に乗じ、再び出兵。この出兵では魏の武将「徐質(魏の名将徐晃の息子)」を討ち取り、三県を制圧し、周辺の民を連れ帰るなど大きな戦果を上げました。
さらにその翌年(255年)に魏の武将「夏侯覇
」が魏の政変のため蜀に亡命してきます。姜維はその夏候覇と共に狄道(定西市付近)に侵攻し、魏の武将「王経」が率いる軍を敗退させることに成功します。
この時蜀軍は数万人とも言われる兵士を討ち取ったといい、この北伐は大成功します。この戦果により姜維は大将軍に昇格し、完全に蜀軍のトップとなります。
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鄧艾に敗れ、北伐に暗雲
連年の敗戦により、魏の西方の守りは危機を迎えました。それを見越してか、姜維は徐質を討った翌年(256年)再び北伐を敢行します。
しかし、魏軍は名将「鄧艾」を西方の守りに派遣、彼は姜維の北伐が来ると事前に察知し、兵をわずかな期間で鍛えあげていました。
姜維は将軍「胡済」と合流し、鄧艾を挟撃する計画を立てていましたが、この計画は鄧艾に読まれ、胡済は合流することが出来ませんでした。姜維は退却しますが、鄧艾に激しい追撃を受けてしまいます。
姜維は帰還できましたがこの「段谷の戦い」で蜀は2桁の将を死なせ、1万人以上の兵士を失ったといいます。多くの犠牲を出したこの北伐で姜維に対する周囲の怨嗟の声が高まり、姜維は自ら降格を願い出ます。
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