田続は鍾会に従い蜀討伐に従軍した将軍です。
しかし、その後鄧艾に従い天然の要害の剣閣を避けて陰平から迂回して成都を目指す途中、江由で鄧艾の進軍命令に反対して処刑されそうになり、その恨みで後に衛瓘に唆されるままに鄧艾を斬ったとされています。
さらに田続は鄧艾を斬った後、どこでどうしたのか一切の記録がない、なんかざわざわする人物でもあります。今回は、なんかざわざわする暗殺者田続の生涯について解説しましょう。
この記事の目次
田続をザックリ解説
では、最初に忙しい方向けに田続についてザックリと解説します。
1 | 田続は幽州右北平郡無終県の人で従祖父は田疇 |
2 | 田疇の家が途絶えたので曹丕の命令で家を継ぐ |
3 | 西暦263年の蜀討伐に護軍として参加し剣閣で姜維と睨み合う |
4 | 鍾会伝記述:鄧艾が綿竹で諸葛瞻を破った後、 剣閣を退却した姜維を追撃し降伏させる |
5 | 鄧艾伝が引く漢晋春秋の記述:鄧艾に従軍し剣閣から間道を通り進軍。 途中江由城攻略で手柄を立てるが、兵士を休ませずに山越えをする 鄧艾に諫言し処刑されかけて恨みを抱く |
6 | 鍾会の乱鎮圧後、衛瓘に唆され綿竹の西で鄧艾・鄧忠を殺害 |
以上がザックリした田続についての履歴です。ここからは、もう少し詳しく田続について説明してみます。
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烏桓討伐の道案内をした田疇の跡を継ぐ
田続の生没年は一切が不明です。正史三国志によれば、田続は幽州右北平郡無終県の人で従祖父は田疇でした。
田疇は、白狼山の戦いで曹操軍を案内し烏桓を討つのに大きな貢献をしましたが、曹操の封爵を固辞し隠者として西暦214年に亡くなります。
本来なら田疇の子孫が家を継ぐべきでしたが、子供も全て早くに死んでいたのでしばらく放置されていました。しかし、曹丕が帝位に就くと田疇の徳義を評価して一族の田続を関内侯に命じて後を継がせたとされます。田疇の一族なら大勢いたと考えられるので、田続は選ばれるなりの能力があったと考えられるでしょう。
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蜀征伐に従軍し剣閣から退却する姜維を追撃
西暦263年、田続は蜀漢討伐軍に選抜され、鍾会に従い護軍となりました。蜀の姜維は沓中より南下して魏の諸葛緒の追撃を振り切り、天然の要害の剣閣に立て籠もります。
ここで鍾会軍は膠着状態になりますが、鄧艾が自軍を指揮して剣閣を迂回し陰平から断崖絶壁を乗り越えて成都を突くプランを示し成功。鄧艾が綿竹で諸葛瞻を破ると、姜維も剣閣を守備する意味がなくなり退却します。
胡烈、田続、龐会は退却する姜維を追撃、姜維は劉禅の降伏命令を受けて広漢の郪県で武装解除、胡烈に降伏しました。
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もう1つの説
ところが、鄧艾伝が引く習鑿歯「漢晋春秋」によると、全く別の事実が書かれています。剣閣で戦争が膠着状態になった時、田続は鄧艾の別動隊に参加して間道を迂回し江由城攻めで功績を挙げたとされているのです。
その後、鄧艾が兵士を休息させず山越えをして無理に進もうとしたので、田続が諫めると鄧艾は怒って田続を斬ろうとしました。
この時は周囲が田続を取りなしたので処分はうやむやになりましたが、田続は鄧艾を恨み、いつか殺そうと決意したようです。1人の田続が遠く離れた剣閣と江由城に同時に存在する事は出来ないので、どちらかは嘘という事になります。
ただ、田続という名前はありふれているので、鍾会軍にも鄧艾軍にも田続が在籍していて陳寿がその事に断りをいれなかったので同一人物と解釈された可能性もありますが、真相は不明です。
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