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関平の死因は関羽との関係性にあった?苛烈な父を制御できなかった温厚な性格


 

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父・関羽とともに亡くなる関平

 

関羽(かんう)の長男である関平(かんぺい)樊城(はんじょう)の戦いの後に孫権(そんけん)配下の馬忠(ばちゅう)によって捕らえられ、関羽とともに斬首されました。

 

関平

 

直接的な死因は首を刎ねられたことにあるわけですが、仮に関平が関羽を諌めていたり、部下との軋轢を生まないようにケアをしたりとサポートをしていれば、お互いに荊州(けいしゅう)で命を落とすこともなかったのかもしれません。

 

つまり、関平たちが死んだ間接的な原因は、関平自身の性格にあったのではないかということです。

 

蜀志(蜀書)_書類

 

関平自身は記録が非常に少なく、どんな人物であったかも推測が難しい人物ではあるのですが、今回はそんな関平の人生をたどりながら、その死因について考えていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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関平の生まれた年

敗れる関羽雲長

 

正史三国志における関平の記述は非常にシンプルで、関羽と共に斬首されたことしかありません。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)書類

 

そのため、どのタイミングで生まれた子供なのか、関羽との年の差がどのくらいだったかは不明です。ただ、後年になって書かれた「関聖太子宝誥」などの書物や関侯祖墓碑記(ぼひき)(清代に発見された関羽の墓の記述)などの遺物によれば178年5月13日生まれと記載があります。

 

また、この他にもソースが確認できなかったものの182年、190年、200年以降という情報もあり、ハッキリしたことは分かりません。

 

張飛、劉備、関羽の桃園三兄弟

 

ただ、劉備(りゅうび)たちは傭兵団として各地を転戦していた期間が長いことから妻子を持てるタイミングは限られていたはずです。そうすると比較的信憑性が高いのが178年の劉備と出会う前で、妻子をどこかに置いて関羽が流浪していたのであれば辻褄は合います。

 

土いじりをする劉備

 

気になる点としては、当時の女性がシングルマザーで生活できるほど豊かだったのかが疑問で、関羽が仕送りをするにしても根無し草の劉備一行にお金があったとは思えません。

 

 

関平の息子

趙雲と孫夫人

 

江陵県志(こうりょうけんし)によると関平は趙氏(ちょうし)という奥さんを娶り、その間に関樾(かんえつ)という息子が生まれたとされています。この趙氏という女性は趙雲(ちょううん)の娘であるとも言われていて、実在したのであれば祖父が関羽と趙雲ということで、かなり期待が寄せられていたでしょう。

 

それはさておき、この関樾が生まれたのは212年という説があるのです。そこから関平の年齢を逆算すると、15か16歳くらいで授かったとしても197年よりも前に生まれていたことになります。

 

食客に成り下がる劉備

 

現実的に考えると劉備が徐州(じゅしゅう)で安定した時期に結婚をしたはずなので、195年以前には関平は生まれていたのではないでしょうか。

 

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趙雲

 

 

関羽との関係性

関羽の青銅像

 

関羽の生年月日も明らかではないのですが、前述した関侯祖墓碑記の記載では160年となっています。ほかの書物でも159年などとある事から、関平が178年生まれであればおよそ20歳差、190年以降の生まれであれば30歳以上離れていたということです。

 

赤兎馬を乗り回す関羽

 

また、178年の生まれであれば関羽と長らく戦場を共にしていたはずなので、父の性格を熟知していたはずですし、ある程度諌められるポジションにいたとしても不思議ではありません。

 

黄忠と同列になることにくキレる関羽

 

関羽は傲慢な面があるものの、黄忠(こうちゅう)と同列になるのが嫌で拒否した際に、費詩(ひし)が諌めるとそれを聞き入れています。それだけ費詩の舌鋒(ぜっぽう)が鋭かったのかもしれませんが、聞く耳は持っていたのではないでしょうか。ではなぜ関平はそのポジションになれなかったのか。それは性格にあったのではないかと考えます。

 

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関羽

 

名は体を表す

劉備と関平たち

 

関平の性格は推測が非常に難しいのですが、考察の材料として考えられるのが名前と字です。正史に関平の字の記載はありませんが、「関聖太子宝誥」によると坦之(たんし)とされています。

 

青龍偃月刀を持つ関羽

 

字はいくつかのパターンがあり、その中でも比較的多いのが名前と意味を合わせるという決め方。例えば関羽雲長(うんちょう)であれば「羽」と「雲」がイメージ的にも合致します。関平の弟は関興安国(かんこうあんこく)ですが、「興」には盛んにさせるなどの意味があり、「安」んじると似た意味合いです。

 

さらに「国」は地域や土地を表す漢字なので、地域を盛んにさせるとか地域を安んじるといった意味だったと考えられます。関平の坦之も「平」も「坦」も起伏がないことで、穏やかといった意味合いです。2つ合わせると「平坦」となりますが、名が体を表すのであれば落ち着いた雰囲気だったのではないでしょうか。

 

三国志演義_書類

 

三国志演義でも関平は冷静沈着な性格として描かれていますが、これは名前の印象から来たものなのかもしれません。もし仮に関平が冷静な性格だったとすれば、関羽を諌めたが聞き入れられなかった。あるいは物静かな性格で関羽に意見ができなかったのかもしれません。

 

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全訳三国志演義

 

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TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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