曹操が人材マニアである事はよく知られています。三国志演義では、諸葛孔明の知略に翻弄される曹操ですが、あれは虚構で正史では、生前の曹操が孔明に言及した部分はありません。実は諸葛亮、曹操死後、北伐から名前を知られるようになった人物なのです。
しかし、一方で曹操は諸葛亮や諸葛瑾の祖先については、一級の人物であると褒めていました。その名を諸葛豊と言いますが、曹操が褒める割に残念な最期を迎えていました。それは、どうしてなのでしょうか?
この記事の目次
諸葛豊についてザックリ!
では、最初に諸葛豊についてザックリ解説します。
1 | 張楚王、陳勝の部下、葛嬰の末裔とされる |
2 | 前漢末、元帝の時代に同郷の貢禹に見出され侍御史に昇進 |
3 | 職務に厳しいことで元帝に気に入られ司隷校尉に昇進 |
4 | 長安の治安を厳格に守り違反者をバンバン投獄。 |
5 | 諸葛豊に会うと人が消えると陰口を叩かれる |
6 | 元帝の外戚の許章を捕らえようと宮殿まで追いかけ元帝に激怒される |
7 | 厳しすぎる職務態度のせいで讒言が集中し司隷校尉をクビになる |
8 | 最期は官職を剥ぎ取られ失意の内に死去 |
さて、ここからは諸葛豊について、より詳しく見ていきましょう。
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諸葛豊 長安の治安を預かる司隷校尉になる
呉書、諸葛瑾伝が引く風俗通によると諸葛豊は張楚王陳勝の配下だった葛嬰の末裔で葛嬰が陳勝に処刑された後、前漢の文帝の時代に葛嬰の孫を探し出して祖父の功績で諸県侯に封じたそうで、それから葛氏は諸葛と改姓したとされます。
さて諸葛豊、前漢末に経書に通じていた事で郡文学となり、剛直な性格で評判になりました。貢禹が御史大夫となると、同じく琅邪郡出身の諸葛豊を御史属とし侍御史に推挙します。この貢禹も清廉潔白で経書に明るいので、諸葛豊とウマが合ったのでしょう。
この時代の皇帝元帝は度を越した儒教マニアで減税して労役を減らし、贅沢を誡めて民を労わった一方過去の政治を理想化して塩と鉄の専売制を廃止するなどして財政状態を悪くするなどしました。
諸葛豊は、清廉で儒教偏重の元帝と性質が合致し、司隷校尉として長安の治安を守る役職に就きます。
司隷校尉になった諸葛豊は大張り切りで、誰であっても忌避する事無く監察・弾劾しました。多くの法律違反者が逮捕され、長安の人々は「諸葛豊に会うと人間が市中から消える」と陰口を叩くようになります。
しかし、理想主義者の元帝は諸葛豊の厳格さを気に入り、光禄大夫の秩禄を与えました。
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元帝の外戚を追い回し帝の機嫌を損ねる
ところが、諸葛豊はそれで有頂天になったのか、大きなやらかしをします。ある時、元帝の外戚である侍中の許章の賓客が罪を犯したので許章も取り調べの対象になりました。諸葛豊は許章を弾劾する手続きをしていましたが、ある時、許章が外出するのに偶然に出くわしたのです。
諸葛豊は車を停めて、司隷校尉が持つ節を掲げて許章に「車を下りよ」と詔を下し逮捕しようとします。許章は馬車を走らせ宮殿に逃げ込んで元帝に助けを求めました。諸葛豊も宮殿まで追いかけて元帝に許章を逮捕させてくれと上奏しますが元帝は、
「貴様、わしの外戚になに無礼を働いとるんじゃゴルァ!」と激怒し諸葛豊から節を取り上げます。これ以来、節を与えると権限を振り回すようになるとして、司隷校尉には節を与えなくなったそうです。
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官職をクビになり失意の最期を迎える
元帝は儒教マニアでしたが、理想主義の綺麗ごとを好む人で決して公正な人物ではありませんでした。身内が関係しない限り法は厳格にしてもいいという程度の人だったのです。
こうして、面目を失った諸葛豊に職務に厳しすぎる諸葛豊が司隷校尉では都合が悪い人々が、一斉に元帝に悪口を吹きこみ元帝は諸葛豊を疎んじて城門校尉に左遷しました。
以後も諸葛豊はめげずに、光禄勲周堪や光禄大夫張猛の悪事を告発しましたが、かつては周堪、張猛を褒めていたのに評価が一定しないと元帝の不信を買い、遂には役職を罷免され無官のまま死去しました。
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曹操が賞賛した理由
諸葛豊には、法律に厳しかった以外には大した功績はありません。
しかし儒教的なゆるゆる徳治政治を批判し、厳格な法治主義を採用していた曹操には、君主の不興を買っても正義を実行した諸葛豊は好ましい人物だったのでしょう。また意地悪な事を言えば、真面目に法律を守るだけで曹操に取って代わるような才覚がない役人は、曹操の統治にとっても理想的でした。
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因果は巡る。諸葛亮も司隷校尉に
法律に厳しく例外を許さないという点で諸葛亮に似た点がある諸葛豊ですが、因果は巡るというか、遥かに後年、諸葛亮もかつて諸葛豊が就いていた司隷校尉に任命された事があります。
これは、前任の司隷校尉の張飛が部下に寝首をかかれて死んだ事による措置でしたが、諸葛亮は多忙だった為にビシビシと厳しく違反者を摘発するような事はなかったようです。あるいは、先祖の失敗を教訓に、厳しく取り締まりすぎる弊害を考えての事かも知れませんが、真相は分かりません。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は諸葛亮や諸葛瑾の先祖で、曹操が珍しく褒めた前漢の司隷校尉、諸葛豊について解説してみました。厳しすぎるとはいえ職務に落ち度はなかった諸葛豊ですが、やはり主君の顔色は見ておかないといけなかったですね。もっともそれでは、上手く人生を全うしても漢書に列伝されないで終わり、曹操が褒め称える事も無かったかも知れませんが…
参考文献:漢書 班固
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