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曹操に仕え、呂布に仕えた陳宮、軍師の「最期のとき」と生き様に迫る

2021年11月16日


 

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陳宮

 

皆さんは、陳宮(ちんきゅう)についてどうお考えでしょうか。

 

曹操を裏切る陳宮

 

曹操(そうそう)を見限り、己の才を天下に知らしめようとした野心家?呂布(りょふ)に生涯を賭けたのに、その策を用いられなかった不遇の人物?

 

呂布に従う陳宮

 

色々な陳宮像があるでしょうが、今回は今一度、陳宮という人物について振り返ってみたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陳宮という人物

正史三国志_書類

 

さて陳宮という人物ですが、正史に置けるその生涯は謎が多くあります。

 

陳宮と逃亡する曹操

 

まず陳宮といわれると呂布の軍師ポジション、としての方が有名ですが、それ以前は曹操に仕えていました。つまり曹操から呂布に主を鞍替えした、と言えますが、ここに陳宮の謎があります。

 

曹操の再度仕官の勧誘を断る陳宮

 

主を鞍替えしたことについて、その理由も原因も分かってはいないのです。このため、陳宮は三国志演義ではその理由が創作で描かれることになります。

 

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曹操孟徳

 

 

 

三国志演義での陳宮

曹操と陳宮は追手から逃げる

 

三国志演義で陳宮は董卓(とうたく)暗殺に失敗して逃亡していた曹操と出会います。しかし一度は曹操を捕らえるも、曹操という人間に触れた人物は「この人こそ我が主」と思い、曹操と行動を共にするようになりました。

 

呂伯奢事件 曹操、陳宮

 

ですがその後、親切にしてくれた呂伯奢(りょはくしゃ)の家で起こった事件から曹操を見限ろうとするもそこまではできず、仕えはしてもどこか心が離れたまま、その離別を決定的にしたのが曹操と徐州(じょしゅう)陶謙(とうけん)との戦い。

 

曹操に対して不信感を抱く陳宮

 

陶謙と交流があった陳宮は曹操を諫めるも聞き入れられず、遂にその下を離れることに決意。そして見出した最後の主こそ、呂布でした。

 

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呂布軍での陳宮

赤兎馬にまたがる呂布

 

さて三国志演義においても、正史においても陳宮は呂布の配下に収まります。ですがどうも呂布軍では陳宮は他の武将と不仲にありました。

 

劉備を裏切る呂布

 

その原因は呂布が劉備(りゅうび)から徐州を奪った後、反乱が起きたことに起因します。

 

郝萌(かくぼう)と曹性をボコボコにする高順

 

この反乱は高順(こうじゅん)によって鎮圧されるも、この黒幕は陳宮であったという供述があるのです。

 

怒る陳宮

 

この供述に陳宮は「顔を赤らめた」とされており、嘘の供述に怒ったのか、それとも真実を暴露されたから顔を赤くしたのかはわかりませんが、呂布はこれを不問にしました。

 

高順が呂布に疎んじられた理由07 高順

 

しかしこれ以後、陳宮と呂布たちに何らかの溝ができたのか、これ以後の陳宮の進言は却下されることが多く、最終的に敗北した陳宮はその才を曹操に惜しまれながら歴史から姿を消します。

 

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呂布

 

 

陳宮の能力に関して

三国志演義_書類

 

このように、正史で見ていくとちょっと行動に謎が多い陳宮ですが、そのために三国志演義では創作シーンが挿入されることでよりキャラクター付けが引き立つなど、「想像」の面白さを提供してくれる人物でもあると思います。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

しかし陳宮という人物はどのような力があったのか?に関しては、判断が分かれることでしょう。呂布に疎まれその才能を活かせないまま散った悲劇の人物とみるか。それとも曹操、呂布という人物と出会いながら己の才を活かすためだけに行動するあまり、結果的には何も残せなかっただけの人物とみるか……色々な解釈ができる人物だと思います。

 

陳宮に再度自分に仕えないかと投げかける曹操

 

ただ正史でもその最期を曹操に惜しまれていることもあり、筆者は陳宮という人物のしっかりとした「能力を持っていた」人物であると思います。

 

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荀彧特集

 

 

荀攸の見解

荀攸

 

ここでもう一つ注目して頂きたいのが、呂布と曹操の戦いである下ヒの戦い。これにおいて荀攸(じゅんゆう)が「陳宮は知謀はあるが判断が遅い」と進言、陳宮の計略が決まる前に攻撃するようにと進言し、このために曹操は勝利を得ました。

 

荀攸と曹操

 

ここで敗北したこともあって陳宮は良く「判断力がない」「決断力に欠ける」というマイナス面が強調されますが、逆転してみれば荀攸の判断は「陳宮が計略を決める前に早く行動しよう」と言っているのです。

 

荀攸

 

つまり陳宮の計略を荀攸は警戒して早く動いたのですね。決断力、判断力にこそ劣るものの、その頭脳は荀攸が警戒するべき才覚を持っていたということになるでしょう。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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