三国志時代は群雄割拠の時代、その時代に生まれ、生き、そして滅んでいった武将たちは数多くいます。三国志の楽しみにはいくつかありますが、この群雄たちの生涯を追っていくのも、その楽しみの一つですよね。
今回はそんな群雄割拠の時代を生き、そして滅んだ士一族、そしてその一人である士匡について。少しばかり語っていこうと思います。
この記事の目次
士燮と士一族
まず知っておいて頂きたいのが士燮という人物。この士燮は交州において勢力を築いた人物です。交州はベトナムの北部、今で言えば更に広東省辺りも含んだ土地であり、シルクロードの中継地点でもあるという重要拠点で、良く異民族の襲撃にあっていました。
ここに目を付けたのが士燮、先任である刺史が南越賊に殺されると、弟である士壱、そして一族を、交州の各所に配置、凄まじい勢いで勢力を拡大していきます。
士燮は一族と共に良く交州を治め、中原の混乱が落ち着いてからは漢に、そうして赤壁の戦い前には曹操、その後は孫権に付いてと、驚くべき程良く時勢を見ての行動を行っていました。しかしこんな士燮と士一族を邪魔に思う者がいたのです。
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孫家との対立
そう、孫権ですね。当初こそ仲良くしていたとしても、段々と士一族が目障りになってきた孫権。とは言え、交州を治めたその手腕に敬意を払ったのか、孫権は士燮存命中は交州に大掛かりに攻め込むことはなかったようです。
しかしその士燮は90歳でこの世を去ります。ここから孫権の手が交州、そして士一族に伸びてくることになるのです。
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士燮の子、士徽(しき)
こで出てくるのが士燮の子、士徽です。士徽は気が強い性格だったようで、父が孫権に服従した際に兄がその人質に送られ、その下の兄がいたにも関わらず、交州と一族を任されることとなりました。
士徽は気性が強い一方で、交州の人々に恩恵を施し、州の人々が彼に心を寄せて接し、だからこそ周辺に付け入れられることのないように慎重に行動を取らなければならない……という姿勢を保ち、時代を生き抜こうとしたのですが……ここで更に出てくるのが孫呉の頼れる老将、呂岱です。
呂岱は交州の分割統治を進めていきました。
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孫権「かかったな!」
父が治めていた交州は分割され、各地に孫権の配下が派遣されていきます。これに我慢がならなかった士徽は遂に反乱を起こしてしまいました。
ですがこの反乱は準備がされていなかったのか、叔父や従兄弟の士匡は参加しないまま。しかもこの際に諫言してくれた配下を怒りのまま殺害してしまったことでその身内との争いが起こるという、孫権と戦う前に盛大な身内争いが起こるという事態に陥ってしまいました。
この後、従兄弟の士匡が「降伏したら命だけは保証する」という呂岱からの密約を持ってきたことで、士徽は降伏の道を選びます。士徽がどうなったかは、士匡の項で話しましょう。
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士匡
士匡は士燮の弟の子、甥にあたる人物です。そんな士匡は呂岱とは友人関係にあったようですが、ある時、従兄弟の士徽が孫権に反乱を起こします。ここで士匡は呂岱に「士徽の命は助けるから降伏するように説得して欲しい」ということで、従兄弟の説得に向かいます。
幸いだったのかどうかは分かりませんが、既に士徽たちは戦うだけの力はなく、また士徽の兄の取り成しもあってか、士徽は降伏。よし落ち着いた……と思いきや。
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