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「蜀」は弱い? 最弱国の要因って何?

2021年12月22日


 

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悪役の曹操、正義の味方の劉備

 

三国志」の一角を占め、小説「三国志演義」では主役級の扱いをされる「(しょく)」。しかし、史実では三国の中で真っ先に滅亡してしまい、「蜀は弱い」というイメージがある人も多いことでしょう。

 

曹操から逃げ続ける劉備

 

今回の記事では「蜀が弱い」と言われる要因を魏や呉と比較しながら探っていこうと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「蜀」建国の経緯

魏王に就任する曹操

 

曹操(そうそう)率いる「」が「中原」(漢の都を含む)エリアを制覇し、孫権(そんけん)(呉)が呉の地方に確固たる勢力を築いていたころ、「益州(えきしゅう)」と言われる地方は「劉璋(りゅうしょう)」が支配していました。

 

諸葛亮孔明の天下三分の計に感化される劉備

 

諸葛亮(しょかつりょう)劉備(りゅうび)の配下になり、魏と呉、そして劉備で中国を三分割する「天下三分(てんかさんぶん)の計」を提案しました。そこで目をつけられたのが「益州」でした。

 

劉璋(りゅうしょう)

 

劉璋はあまり優秀な君主とは言えず、劉璋配下たちは劉備を益州に迎えることを計画。劉備はそれに応じ、益州を奪取したのです。こうして天下は「曹操の魏」「孫権の呉」「劉備の蜀」と三分割されることになったのです。劉備が皇帝に即位したのは221年の事でした。

 

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領土の広さと動員兵力の違い

天下三分の計

 

天下は三分割されたというものの、三国の国力の差は大きなものでした。領土の広さでいうと魏は当時中国の11州を支配し、呉は4州を支配していました。対して蜀はわずか1州。

 

村人(農民)

 

また、魏は中原と言われる当時の最先端地域を支配していました。

当時の推定人口は

魏452万人

呉230万人

蜀90万人

と言われています。

 

庶民、村人の家

 

蜀と魏は5倍ほどの人口の差があり、動員兵力もそのぐらいの差があったと考えられます。これだけ見ても「蜀が弱い国」といわれても仕方がないのかもしれませんね。

 

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人材の差

献帝を保護する曹操

 

曹操は早くに漢の献帝(けんてい)を手中にし、天下に近づきました。これにより彼の元には多くの人材が集まっていきました。呉はその地域の私兵をもつ豪族の集合体の国家であり、昔からの豪族が孫権の基に団結していました。

 

酔いつぶれる劉備玄徳

 

一方蜀は劉備が放浪の期間が長かったせいもあり、いわゆる「子飼いの武将」が不足していました。益州を手に入れ、多くの人材も傘下にいれたものの、魏に比べれば明らかに劣っていました。

 

呉の諸将を論破する諸葛亮孔明(セリフなし)

 

その為諸葛亮が「軍事、内政、人材登用、外交」と国の重要事項をすべて担当しなければならず、彼に頼る国家となってしまいました。

 

蔣琬(しょうえん)

 

諸葛亮は自分の死後をになう人材として「蔣琬(しょうえん)」「費禕(ひい)」を指名し、彼らはなんとか国を維持するものの、彼らの死後は人材がおらず、国は衰退を加速させていきました。

 

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天然の要害だが・・・

祁山、街亭

 

蜀の地は「天然の要害」と言われ、攻め込むのにとても難しい土地でした。実際、魏が蜀に侵攻した際にも「剣閣(けんかく)」と言われる要害で苦戦し、侵攻が遅れています。

 

三国志 蜀の桟道(街亭)

 

しかし、「守りやすい」という事は「攻めにくい」という事で、蜀から魏に攻め込む道は殆ど整備されておらず、「桟道」といわれる崖に木を通したような心もとない道を通ることを余儀なくされました。

 

祁山、街亭

 

それに加え兵糧の補給の問題もあり、何度も魏に攻め込む「北伐」はおこなわれたものの、兵糧の問題で撤退したこともありました。

 

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蜀の劣勢を挽回するための施策とは? 1.経済

孔明

 

当然諸葛亮たちも蜀が弱いことは十分承知しており、なんとか魏に対抗しようと様々な対策を練っています。先ずは経済を安定させるため「塩と鉄の専売制度」を導入しました。塩は生きる上での必需品であり、鉄は武器を生産するのに必要なものでした。

 

蜀の劉備

 

劉備が蜀に入る前は塩や鉄の生産販売は大商人や豪族が担っていましたが、諸葛亮は生産から管理販売まで国で一括して管理することにしたのです。この政策によって国家の財政は潤い、財政的に改善が見られました。また、蜀の特産品である「蜀錦」の生産を管理し、貿易によって利益を得ることが出来ました。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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