劉備が蜀を建国した益州の地は「天然の要害」といわれ、簡単には侵略できない土地でした。東の荊州から益州に入るには長江を遡らなければなりません。北から益州に入るにはそびえたつ山脈を越えなければならなかったのです。
その山々には山道のようなものは無く、「桟道」と言われる道を通過しなければなりませんでした。今回はその「蜀の桟道」について探ってみようと思います。
「蜀の桟道」の場所は?
「蜀の桟道」は関中から益州の中心都市「成都」へ抜ける道の事を言います。狭義での「蜀道」は成都から北へ約450キロ区間を示しています。広い意味では成都から「金牛道」を経て、秦嶺山脈を越える約1000キロの道を指します。関中と成都の間には2000メートル級の山々が連なっており、成都に向かうにはこれらの山を通過しなければなりませんでした。
その為に作られたのが「蜀の桟道」です。とても険しい道であることから「蜀道の険」とも言われます。その道は崖に穴をあけ、そこに杭を打ち、その上に木または石の板を置くことで作られました。その山道はとても細く、危険でした。有名な桟道には「金牛道」「故道」「陝西道」などがあります。
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「蜀の桟道」の成り立ち
蜀の桟道は秦の恵文王(在位紀元前338年〜紀元前311年)の時代に作られたと言われています。恵文王は蜀の地域に独自の文化を持っていた「巴蜀」という国を征服しようと計画しました。
しかし、その地域は天然の要害、険しい山道に囲まれ、容易にたどり着くことが出来ません。そこで恵文王は策を練りました。友好の証に、蜀の王に「金を産む牛」の像を贈る事にしたのです。しかし、その像を運ぶには蜀の山道は険しすぎます。そこで蜀の王は現在「金牛道」と言われる桟道を建設したと言われています。その道を使って恵文王は蜀を征服することに成功しました。
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劉邦、桟道を焼く
時代は進み秦時代の末期です。この時代には秦への反乱が相次ぎ、中でも項羽はその反乱の中心として活躍していました。
しかし、反乱軍の中で劉邦が力をつけ、項羽を脅かすようになっていきます。そこで項羽は劉邦を蜀の王に任じます。これは昇進と見せかけ、劉邦を中央から遠ざけるためでした。
ちなみに蜀地方は中国から見ると「左」に位置しているので劉邦を「左」に「遷す(移す)」でこのエピソードは「左遷」の語源と言われます。蜀の地に左遷される際、劉邦は軍師「張良」のアドバイスに従い、なんと桟道を焼いてしまいました。これは項羽に「東に攻め込むことは無い」という意思表示と外部への情報漏えいを防ぐためでした。しかし、のちにこっそり桟道を修復させ、東へ進軍することになります。
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三国志の時代の桟道
三国志の時代、劉備が蜀漢を建国すると、桟道は重要さを増しました。魏からの防衛と、北伐での進軍で度々利用することになったのです。諸葛亮は「剣門」の地に新たに桟道を建設し、要塞を築いて「剣閣」と呼びました。そこは蜀防衛の最重要地点となります。
また、魏延と楊儀の争いの際、魏延が楊儀の退路を断つために桟道を焼いています。
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