蜀の桟道とは?蜀へ至る過酷な山道はどのような経緯で誕生し、今はどうなったの?

2021年12月26日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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李白も嘆く「蜀道難」

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時代が進んでも蜀の桟道が難所であることは変わりませんでした。唐の時代の詩人「李白(りはく)」も「蜀道(しょくどう)難」という詩を書いています。

 

李白は

「蜀道の険しさは晴天に登るよりも大変なことだ。下には波が逆巻き、巡り流れる川がある。伝説にある黄色い鶴でさえも飛び越えることが出来ない。猿が渡ろうとしているけど、よじ登れないと心配している。」

(意訳)

と詠んでいます。

 

李白は生まれの地は詳しくわかりませんが、蜀の地で育ち、各地を放浪していたので、桟道の険しさは身に染みていたのでしょう。

 

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その後の桟道

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その後の時代も蜀の桟道は中央と蜀の地を結ぶ重要な道として使われていました。貿易などでも使われ、何度も戦乱などで破壊されながらも復旧されてきました。

 

しかし、1937年に初めて近代的な道路が完成し、1943年には間中までその道路が到達しました。そうなると蜀の桟道は使われなくなり、不要になった桟道は破壊されていきました。現在では観光の為、安全設備を付けたうえで新たな桟道を整備したり、かろうじて残った古くからの桟道を文化的歴史的価値から保存しようという動きも進んでいます。

 

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三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

「蜀の桟道」を見たことがありますが、本当に人ひとりが通れるほどの狭さで、ここを軍隊が進軍するとなると、実に困難だったことが想像されますね。現在の道路の素晴らしさを実感させられます。

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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