劉備や張飛と兄弟のような固い絆で結ばれた関羽でしたが、一時劉備と離ればなれになり、曹操に仕えることになります。そこで関羽は功績を挙げ、曹操から「漢寿亭侯」という爵位を贈られています。
その後関羽は劉備の下に戻ることになるのですが、この「漢寿亭侯」とはどのような意味なのでしょうか?
今回の記事で考えてみましょう。
この記事の目次
そもそも「侯」ってなに?
「漢寿亭侯」とは「あなたを“漢寿“という城(亭)の”侯”に任命します。」という意味で、「侯」とは貴族の位である「爵位」になります。この「侯」という爵位はその名前の場所から税金を取る権利を得たことになり、事実上その土地を与えられたことになります。と、いう事は関羽は「漢寿」という土地の支配権を与えられたことになりますね。
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「漢寿」とはどのような場所なのか?
関羽が曹操に与えられた土地、「漢寿」とはどのような所なのでしょうか。漢寿は「武陵郡」に所属する場所でした。現在の「湖南省常徳市漢寿県」に相当します。
この場所は前漢の時代は「索県」と言われていましたが、後漢の時代134年に「漢寿県」と改名されたようです。この改名は「漢王朝の栄光が長く続きますように」という願をかけた改名だったそうです。恐らくこの「漢寿」という場所は漢王朝にとって重要な場所であり、漢王朝に忠義を誓う関羽にこの爵位を与えることが曹操にとって大きな意味があったのでしょう。
その後の漢寿
その後漢寿は魏に支配され「魏寿県」に改名されますが、次に呉の支配下に入り「呉寿県」と改名されました。「その国が長く続くように」とその時々に改名されるこの土地ですが、残念ながら魏も呉も滅び、晋に統一されます。
そしてその土地は「漢寿県」に戻され、その後は12世紀北宋の時代に「辰陽県」「龍陽県」と改名されるも中華民国成立後に再び「漢寿県」となり、現在に至ります。今の漢寿県は農業が主要産業であり、中でも「玉ねぎ」は日本に多く輸出されているようです。
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蜀にも「漢寿」があった?
魏や呉に「縁起が良い名前」として付けられた「漢寿」という場所ですが、実は劉備が立てた「蜀」にも「漢寿」が存在しました。その場所はもともと「梓潼郡葭萌県」という場所で、ここは劉備の蜀建国のはじまりとなった場所なので「蜀漢が長く続きますように」という意味で「漢寿」に改名したのです。また、「漢寿」に改める直前に関羽が死亡しているのでその追悼の意味もあったのかもしれませんね。
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