「費禕」と言えば、諸葛亮が亡くなった後に蜀の政治を支えた人物として知られていますね。その優秀さで蜀の政治を混乱させなかった費禕ですが、悲劇的な最期を迎えてしまうのです。
今回の記事ではそんな費禕の人生と、その死因について探ってみましょう。まずは費禕の経歴を見てみます。
この記事の目次
親せきの縁で益州に移り住む
費禕は荊州江夏郡出身ですが、早くに父を亡くし、一族の「伯仁」のもとに身を寄せていました。その伯仁の叔母が益州の「劉璋」の母であったため、戦乱が迫っていた荊州を避け、益州に移り住むことになりました。
そこでは後に共に劉備に使えることになる「董允」とともに勉学に励み、名を知られることになります。
蜀に仕え、その仕事ぶりに周囲が驚愕
劉備が益州を掌握すると、董允らとともにそこに仕えることになりました。彼らは劉禅の補佐を担当することとなり、劉備が亡くなった後も劉禅を朝廷で助けます。
費禕は恐ろしく仕事ができる人物だったらしく、多忙な中で記録を読む場合でもその内容を素早く熟知し、決して忘れることがなかったといいます。一方で博打や飲酒など遊び好きな人物でもありましたが、職務に支障をきたすことはありませんでした。
一度董允が費禕のやり方をまねて仕事をしたことがあったのですが、すぐに仕事が滞ってしまい、費禕の仕事ぶりに驚嘆したといいます。
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諸葛亮にも信頼され、孫権も驚愕
諸葛亮も費禕の才能を高く評価しており、南征から帰った際には車に同乗させるなど信頼していました。
その後は孫権の呉との交渉役も務め、孫権や諸葛恪らから鋭く議論を吹っ掛けられたりもしましたが、費禕は理にかなった反論をしてまったく屈せず、孫権も「君は蜀を支える人物になるだろう」と称賛しています。
成都の南に「万里橋」という橋がありますが、その名の由来は呉へ赴く費禕を見送った諸葛亮が「万里の行程はここから始まる」と語ったことから名づけられたそうです。
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魏延と楊儀の間を取り持つが・・・
魏延と楊儀はそれぞれ軍事と事務のエキスパートでしたが、お互い仲が悪く、魏延が楊儀に剣を突き付けるほどでした。
費禕はそのたびに二人の間を上手に取り持ち、諸葛亮が亡くなるまでは彼らの能力を発揮させることに成功しています。しかし、諸葛亮が北伐の際に亡くなると、費禕は魏延の謀反ともとれる言葉を聞いてしまい、結局彼を殺すことになってしまいます。
また、楊儀も費禕に自分の待遇の不満を漏らしたところ、費禕は劉禅にそれを伝え、楊儀も左遷先で自殺してしまいます。
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